ガーネットの軌跡:古代文明から19世紀の頂点へ

Bonjour 皆さん!オーナーのラファエルです。

広く知られている宝石の中で、ガーネットほどその魅力が過小評価されている石は無いのではないでしょうか。その歴史を紐解いていけば、古代から19世紀まで、非常に人気のあったことがわかります。ガーネットは、その美しさや多様性、歴史において、私たちが思っている以上に素晴らしい宝石なのです。

本記事では赤色のものを中心に解説しますが、褐色、緑色、オレンジ色、ラズベリー色、ピンク色など、実に様々な色合いを見せます。サファイアレベルの高い屈折率を持つため、非常に鮮やかで輝きが強い宝石です。

日本では柘榴石(ざくろいし)とも呼ばれます。丸く赤い結晶が集まった姿が柘榴の実に似ていることから、この名前が付きました。

ガーネットの結晶

少し専門的な話になりますが、ガーネットは16種ある鉱物を総称する鉱物のグループ名です(宝石になるものは6種)。ここでは詳しく触れませんが、鉱物学的に「連続固溶体」を形成する鉱物群に分類されます。ご興味のある方は、アンティーク物語『蜂ブローチからの「同形置換」からの「他色」と「固溶体」』をお読みになってみてください。

古代から中世初期にかけて、ガーネットは最も価値のある赤い宝石として人気があり、多くの宝飾品に使われました。この時期を「ガーネット・ミレニアム」と呼ぶことさえあります。その後、ルネサンス期までは人気が下火になりました。ルビー、スピネル、トルマリンなどの他の赤い宝石に注目が集まったためです。しかし、18世紀末~19世紀には人気がV字回復。皆さまよくご存じのボヘミアンガーネットやフランスのペルピニャンガーネットがその独特の美しさから注目を集め、装飾品として広く利用されるようになったのです。いずれもアンティークジュエリー定番のガーネットといえるでしょう。

ペルピニャンガーネットのクロスブローチペルピニャンガーネットのクロスブローチ

本記事では、特にガーネットが重用された時代について、その歴史をご紹介いたします

目次

  • 古代文明におけるガーネット
  • 中世ヨーロッパとガーネット
  • 19世紀のガーネットブーム

古代文明におけるガーネット

古代エジプト

古代エジプト(紀元前3100年~)では、ファラオ(エジプトの王)たちの装飾品にガーネットが使われていました。副葬品として、ミイラとともに埋葬されることも多かったようです。力、保護、そして再生を象徴する宝石とされていたといわれています。

下の写真は第12王朝の古代エジプト王の娘Sithathoriunetの墓から出土したペクトラルネックレス(胸飾り)です。紀元前1887年-1878年頃のもので、金、コルネリアン、ラピスラズリ、トルコ石、そしてガーネットが使われています。古代エジプト絵画を思わせるデザインがとても魅力的ですね。

古代エジプト王の娘Sithathoriunetの墓から出土したペンダント出典:メトロポリタン美術館

古代エジプトではガーネットの使用はまだ限られていましたが、その後の古代ギリシャ、古代ローマ時代には貴重な宝石として多用されるようになりました。

古代ギリシャ

古代ギリシャ(紀元前8世紀頃~)では、ガーネットはその内部の輝きにより「ランプ石」を意味する"nuktalopos”と呼ばれていました。また、情熱や勇気を呼び起こす石と考えられていたともいわれています。

アリストテレスの後継者テオフラストスの鉱物学書『ペリ・リトン(石について)』によれば、古代ギリシャではガーネットの価値が非常に高かったようです。たとえ小さな石であっても、その価値は40金スタタース(約10トロイオンス)の金に相当するほどだったとのこと。分かりづらい単位ですが、40金スタタースは古代ギリシャの金貨40枚を指し、その重さが約311グラム(1トロイオンス=約31.1035グラム)ということです。小さなガーネット一つが金貨40枚相当とは驚きです。とてつもなく高価だったのですね。

古代ギリシャ・ヘレニズム時代のガーネットジュエリーを以下にご紹介します。カット技術がさほど発展していない時代のもので、シンプルなカボションに仕立てられています。
※ヘレニズム時代=紀元前323年~紀元前30年。古代ギリシャ文明と古代オリエント文明が融合して、ヘレニズム文明が生まれました。

古代ギリシャ(ヘレニズム期)のガーネットのネックレスとイヤリングのセットガーネットのネックレスとイヤリング 出典:メトロポリタン美術館

この時代のガーネットジュエリーの製造拠点として、エジプトのアレクサンドリアやカリア地方のアラバンダ(現トルコ南西部)が挙げられます。その他、イタリアのターラント(毒グモ「タランチュラ」の語源となった南部プッリャ州の都市)など、ヨーロッパの裕福な都市も含まれていた可能性があるようです。

古代ローマ

古代といえば古代ローマ文明は外せません。紀元前8世紀頃にイタリア半島で始まり、紀元前1世紀から紀元後4世紀末頃にかけて最盛期を迎えた文明です。古代ローマ期は古代ギリシャ期と時代が何世紀か重なっていますが、最終的にローマがギリシャを取り込み、ギリシャ文化を受け継ぐことで古代ギリシャ・ローマ文明(Greco-Roman Civilization)と呼ばれる新しい文化の基盤が形成されました。なんだか歴史の教科書みたいになってしまいましたね。私はグレコローマンというと真っ先にレスリングが頭に浮かびます。

古代ローマ文明においても、赤い鮮やかなガーネットは富や地位を象徴するものとして高く評価されていました。上質なガーネットは、カボションに磨かれさまざまな装飾品に埋め込まれたり、古典的な人物や神々を描いたカメオやインタリオとして加工され、シグネットリングとして使用されていました。

以下の素晴らしい古代ローマのガーネット・カメオは紀元前1世紀頃の作。リング用に作られたものです。

古代ローマのリング用ガーネット(顔の彫刻)出典:メトロポリタン美術館

このタイプのカメオやインタリオがセットされたアンティークリングをご覧になった方も多いかと思います。古代ローマのリングだったの?と驚かれるかもしれませんね。現在流通しているものの多くは、19世紀以降の作。ギリシャ・ローマの古典美を理想とした新古典主義時代(18世紀末~19世紀前半)に制作されたものか、より新しい時代のものです。古代ローマ製と称するジュエリーも(博物館級のものにしては)格安に感じる価格でマーケットに出ていますが、その真偽は分かりません。

ローマやアクイレイア(中世初期までイタリア北東部の中心都市で、遺跡地域と総主教聖堂バシリカが世界遺産として指定されています)、さらにコンスタンティーノーブルやトリーア(現ドイツ、ローマ帝国が北ヨーロッパ進出のために植民地とした都市)などが古代ローマ時代におけるガーネットジュエリーの主要な製造拠点となっていました。

中世ヨーロッパとガーネット

中世におけるガーネットの全盛期は、中世の始まりとされる5世紀から8世紀頃までです。冒頭でも述べた通り、その後はルビーなどの他の赤い石に人気が移っていきました。この章では、8世紀頃までの西ヨーロッパにおけるガーネットの歴史を解説していきます。

ここで少しだけ世界史の復習をしておきましょう。

中世初期の西ヨーロッパにおいて、中心的な役割を担っていた国は、フランク王国です。フランク王国は、現在のフランスを中心とした地域を基盤に、ゲルマン民族の大移動の影響を受けながら勢力を拡大、西ヨーロッパの広範囲を支配下に置きました。

フランク王国の基礎を築いたのは、メロヴィング朝と呼ばれる王朝です。この王朝は5世紀から8世紀にかけてフランク王国を統治していました。ヨーロッパの中世は5世紀頃から始まったとされますので、メロヴィング朝の統治期はまさに中世においてガーネットが隆盛を誇った時期に一致するのです。そこで、この章ではメロヴィング朝(≒当時の西ヨーロッパ)におけるガーネット事情をお伝えすることにします。

メロヴィング朝の聖遺物入れメロヴィング朝の聖遺物入れ 出典:WikimediaCommons

クロワゾネ装飾

メロヴィング朝時代には、赤いガーネットを使ったクロワゾネ技法の装飾が広く使われていました。日本では「クロワゾネ」(仏語:”Cloisonné”)を「有線七宝」と訳すことが多いので、エナメル(琺瑯)限定の技法であると認識されている方が多いかもしれませんね。しかし現地の辞書でこの単語を引くと、“Divisé en plusieurs compartiments par des cloisons"(仕切りによって複数の区画に分けられた)と説明されており、必ずしもエナメルの技法を指す言葉ではありません。ちなみに、有線七宝の正確なフランス語は「クロワゾネされたエナメル」を意味する"Émaux cloisonnés”です。先ほどご紹介した聖遺物入れの表面に施された赤と金線の装飾は、まさにガーネットのクロワゾネ装飾です。

この装飾は、フランク王国をはじめとするゲルマン諸王国が成立した5世紀頃に西欧に広まりました。発祥はペルシャで、その後、黒海北岸⇒ドナウ川流域⇒フン帝国へと伝わっています。
※フン帝国は5世紀に中央アジアからヨーロッパに勢力を拡大したフン族という遊牧民族の国家です。

フン帝国からメロヴィング朝に伝わったのは、メロヴィング朝フランク王国の初代国王であるクロヴィス1世の父キルデリク1世が追放先(フン帝国の影響を受けていたテューリンゲン族の元に身を寄せていたとされる)から帰還した際ではないかと考えられています。

以下は6世紀前半のメロヴィング朝のリングです。

メロヴィング朝時代のクロワゾネ装飾のガーネットリングクロワゾネ装飾のガーネットリング 出典:メトロポリタン美術館

メトロポリタン美術館の注釈よると、リングの素材はゴールド、ガーネット、マザーオブパール。ゴールドには銅を主とする割金が使われていたと思われますが、それにしてもあまり良い保存状態ではなかったようですね。

クロワゾネ装飾の衰退

7世紀に入ると、交易路の変化、地域の政治的不安定化や産出量の減少などにより、それまでの最大の供給源であったインド・スリランカからのガーネット供給が減少します。その結果、ヨーロッパではボヘミアやポルトガルが新たな供給源として利用されるようになりました。しかし、ヨーロッパ産ガーネットはインドやスリランカ産のものに比べてサイズが小さく、従来のクロワゾネ装飾に向いていません。代わりに広まったのは石を枠にはめ込む技法でした。
※クロワゾネ装飾が完全に廃れることはありませんでしたが、時間とともに制作数は減少していきました。

ガーネットとサファイアのブローチ(7世紀) 出典:メトロポリタン美術館

このブローチには見事なフィリグリー細工も施されています。フィリグリー細工については、アンティーク物語『フィリグリーの歴史(1)誕生と古代』をご覧ください。

中世において、ガーネットジュエリーは王家や貴族など富裕層の奢侈品であるとともに、キリスト教の重要アイテムでもありました。ガーネットが「殉教の象徴」とみなされていたため、宗教的な装飾品や宗教家の持ち物、聖遺物入れなどに多く用いられていたのです。

8世紀を過ぎると、ガーネット人気はいったん下火になり、19世紀の復興を待つこととなります。もちろん、中世盛期以降、19世紀より前のルネサンス期(14世紀~16世紀)や近世(16世紀~18世紀)にも、ガーネットのジュエリーは一定数が制作されていました。この時代のガーネットの多くはカボションにカットされており、ややいびつな形状のものが主でした。

19世紀のガーネットブーム

ガーネットが真にその魅力を発揮した時期は、18世紀後半から19世紀にかけてでしょう。その牽引役はボヘミア地方(現チェコ共和国)とペルピニャン地方(フランス)。いずれもガーネットの産地で、現地で産出したガーネットを使用し、独自のスタイルで宝飾品を制作していました。より古い時代から採掘は行われていましたが、最も花開いたのは19世紀、特にその後半といえるでしょう。

ボヘミアンガーネット

ボヘミアでは中世初期からガーネットの採掘が始まり、7世紀頃には採掘されたガーネットがメロヴィング朝のジュエリーに利用されていました。ただし、採掘量はさほど多くなく、大規模な商業採掘が本格化したのは16世紀頃です。

17世紀に神聖ローマ皇帝&ボヘミア王であったルドルフ2世は、ボヘミア産ガーネットを非常に重要視していました。特定の加工業者にのみその利用を限定していたといわれています。18世紀半ばになると、ボヘミア女王でもあった女帝マリア・テレジアは、ガーネット原石の輸出を禁止し、加工を国内に限定しました。このときから国境を越えてガーネット人気が高まり始めたといわれています。19世紀のボヘミアンガーネットブームを起こす導火線となったようです。

ボヘミアで産出されるのはパイロープガーネット。パイロープはギリシャ語で「火のような」という意味の「ピロポス(Pyropos)」に由来し、ルビーと混同されることもある濃い赤色が特徴のガーネットです。

ボヘミアンガーネットのフラワーネックレス(チェコスロバキア)ボヘミアンガーネットのフラワーネックレス

19世紀になると、小さなパイロープガーネットをシンプルなローズカットにしてクラスター状に台座にセットするスタイルが流行。職人たちはカラフルかつ華やかでありながら比較的お手頃な価格のバングルやブローチ、ネックレスなどを制作するようになりました。19世紀を象徴するスタイルで、現在でもよく見られるものです。

その結果、ガーネットはボヘミアにおける宝石産業の中心となり、現在ボヘミアン・パラダイスとも呼ばれている雄大な岩山地帯の中に位置するトゥルノフが切削・加工の中心地となりました。18世紀半ばから徐々に高まっていたボヘミアンガーネットの名声はヨーロッパ中、世界中に広がり、観光客向けの産業としても発展していったのです。

ジュエリーの制作や海外への輸出が最盛期を迎えたのは19世紀後半、特に末期です。完成品だけでなく、ガーネットそのものも多く輸出されました。以下のバングルはその当時のボヘミアンガーネットを使用してイギリスで制作されたものです。

アンティーク ボヘミアンガーネットのバングルブレスレットボヘミアンガーネットのバングルブレスレット

20世紀に入るとボヘミアの鉱山は徐々に枯渇し始め、産出量が減少していきました。

現在も産出量減少の傾向は続いており、特に大粒の高品質な原石はますます希少になっています。そのため、現代のボヘミアンガーネットジュエリーは、小粒のガーネットを多く使うデザインが主流。ヴィンテージやアンティークジュエリーに使われた大きめのボヘミアンガーネットは、現在では入手困難となり、 コレクター市場での価値が高騰中です。現在はチェコの芸術生産協同組合Granát Turnovがガーネットの独占的な採掘権を持っています。
※ボヘミアンガーネットと称する、ボヘミア以外のガーネットを使用したジュエリーも多数流通していますので、お気を付けください。

ちなみにボヘミアン・ガーネット(Bohemian garnet)」という名前は、英語圏や日本などチェコ以外の国々で広く認識されている用語で、現チェコではシンプルな「český granát(チェコガーネット)」が主な呼び名です。

ペルピニャンガーネット

ペルピニャンガーネット(Grenat de Perpignan)は、フランス南部のペルピニャン地方で伝統的に製作されてきたジュエリーに用いられるガーネットを指します。この地域でのガーネットの使用は長い歴史があり、特に19世紀から20世紀初頭にかけて多くのジュエリーが作られました。ペルピニャン地方のガーネットジュエリーは、独特のカットと伝統的な製作技法が特徴であり、現在でも多くの愛好家に支持されています。

現在、ペルピニャン周辺ではガーネットの採掘は行われていないため、現代のペルピニャンガーネットジュエリーに使用されるガーネットは、輸入されたものが中心です。一方、アンティークジュエリーには、かつてこの地域で採掘された「Grenat Catalan」(カタルーニャ地方のガーネット)が使われていました(採掘されていたのは1920年代中頃まで)。このカタルーニャのガーネットは、紫がかった美しい赤色と独特の透明感を持ち、アンティークジュエリーの中でも特に魅力的な素材として珍重されています。ペルピニャンガーネットのジュエリーは単なる装飾品としてだけでなく、地域の伝統や職人技を伝える文化的な価値も持っているのです。

ペルピニャンガーネット 星のペンダントトップペルピニャンガーネット 星のペンダントトップ

ボヘミアで産出するのはパイロープガーネットですが、ペルピニャン(カタルーニャ)のガーネットは主にアルマンディンで、紫がかった深みのある赤色が特徴です。

カタルーニャのガーネットを使用したペルピニャンガーネットジュエリーの制作が盛んになったのは18世紀中頃からで、大きなガーネット鉱床が発見されたことよるものとされています。最盛期を迎えるのは19世紀後半。ナポレオン3世の皇后ウジェニーがこのガーネットを気に入り使用していたため、フランスで大人気となったのです。

アンティーク ペルピニャンガーネットのマーキーズリングペルピニャンガーネットのマーキーズリング

ペルピニャンガーネットに関してはアンティーク物語『ペルピニャンガーネット詳説』で詳しく解説していますので、ぜひご一読ください。

おわりに

ガーネットは、古代から19世紀、そして現代に至るまで、人々を魅了し続けてきた宝石です。その歴史を紐解く旅は、まるで宝石箱を開けるような体験でした。

現代では、供給量が豊富で比較的手に入りやすい石として、その本来の価値が十分に認められていないように感じることもあります。しかし、アンティークジュエリーに使われてきたガーネットの歴史をたどると、古くから人々に愛され、特別な意味を持つスペシャルな宝石であったことがわかります。

力、情熱、そして再生の象徴として、さまざまな文化で大切にされてきたガーネット。その美しさ、力強さと奥深い歴史は、時代を超えて今も私たちの心を打ち続けています。この記事を通じて、ガーネットの魅力を少しでも感じていただけたら幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!