フィリグリーの歴史(1)誕生と古代

Bonjour 皆さん!オーナーのラファエルです。

本記事と次回のテーマはフィリグリー細工の歴史です。

内容が多岐に渡りボリュームが多いため、当初考えていた1話完結はあきらめました。なんとか2話にまとめてお届けできればと考えています。分割したとはいえ、この記事だけでもかなり長いので、一気に読むのは厳しいかもしれません。ごめんなさい。

本記事でお伝えするのは以下のテーマです。

  • フィリグリーの定義
  • いつから存在するのか
  • 古代におけるその変遷

 次号では中世以降の歴史についてお伝えします。日本のアンティークジュエリーファンの方々に人気のある、ネックレスなどのマイユ系のものが登場するのは次号になります、楽しみにお待ちください。

フィリグリーとは何か

多くの方がアラベスク模様のマイユ(環)をイメージするフィリグリーですが、正確にはどのような細工を指す言葉なのでしょうか。

"cantille"(カンティーユ細工)や透かし細工と混同されることもありますが、異なるものです(カンティーユは親戚のようなものではあります)。

日本語で細線細工(さいぜんざいく)や細金細工(さいきん/ほそがねざいく)とも呼ばれます。
その技法の詳細や起源を追いかけるためには原語の語源、由来を知ることが役に立ちますので、古い順に語源からの変遷を並べていきましょう。(出典:Etymonline

filum + granum(ラテン語)→ filigrana(イタリア語)→ filigrane(フランス語)→ filigreen(英語)→ filigree(英語・filigreenの短縮形)

 "filigree"までなかなか長い旅路でしたね。ちなみに半仏の私はフランス語の"filigrane"が真っ先に浮かぶ呼び名です。

単語としてはイタリア語の"filigrana"が出発点になります。"filigrana"という単語が誕生したのはローマ帝国時代といわれています。

"filigrana"を構成するのはラテン語のfilum(糸、ワイヤー)とgranum(粒、穀粒)。フランスの資料では”fil à grains" =「粒の糸」と解説されていることが多いです。

さて、では「粒の糸」とは何なのでしょう。「糸」はその見た目からすぐイメージできますが、ポイントはなぜ「粒」なのか、というところです。
定番の解説「わずか1gの金を数メートルになるまで細く伸ばして使う」から、その1gの金のことを「粒」と表現しているのではと考えていらっしゃる方も多いようですが、これはの語源という観点では誤りです。時折目にする解説「細い金線の上に小さな金の粒を並べることによって模様をつけたもの」も厳密には正しくありません。

アンティークジュエリーで使うフィリグリーの作成過程etirageフィリグリー引き延ばし加工 出典:Gondomar Municipal Museum of Filigree

 いろいろと誤りだの正しくないだの指摘しておいて恐縮ですが、実は「粒」が表すものが何かということについて学術的な統一見解はなく、現在は以下の2つの説が併存している状況です。

  1. 誕生当初、グラニュレーション(粒金細工)と共に使用されることが多かったため
  2. その表面に施されることの多い粒状の模様から

初出の単語”filigrana"が生まれた本場イタリアの語源辞典(DIZIONARIO ETIMOLOGICO ONLINE)に以下の記述があります。
filigràna, filagràna e filogràna "Lavoro di FILO d'olo o d'argento a modo d'arabesco; cosi detto, perché fu già usanza di infilarvi piccoli GRANI o perle, ovvero, secondo altri, perché offre una specie di disengno a GRANA."
「アラベスクのような形の金または銀の細線で作られた作品;名前の由来は、小さな粒や玉(訳注:グラニュレーション)をつける習慣があったからといわれています。また、他の説として、粒のようなデザインが施されることがあるから、ともいわれています。」

     まず1.について簡単にご説明いたします。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、グラニュレーションとは、小さな金の粒を並べてロウ付けする金細工の技法です。フィリグリーと同時代に発展したもので、貼りつけた痕跡を見せずに金の粒を美しく接合する高度なテクニックが使われています。フィリグリー誕生からしばらくの期間、多くの宝飾品がこの粒細工でも飾られていました。このように線細工と粒細工が混在しているケースが多かったため、"granum"(粒)が名称に使用された、ということです。

    下の写真は紀元前4世紀~紀元前3世紀頃に製作されたペンダントで、両方の金細工で飾られています。ペンダントは数センチの小さなものですので、かなり細かい細工です。

    エトルリアのペンダント 出典:Musée du Louvre

     次に2.に移りましょう。その上面に施された粒状の模様から"granum"(粒)が用いられた、という説です。

    ここで少しややこしい話をすると、実はフィリグリーには「表面に粒のような模様が付けられていること」という条件はありません。プレーンなワイヤーを用いた細工でもこの名称で呼ばれることがあるのです。本記事でお見せする古代の作品のうちいくつかはプレーンなワイヤーが使用されていることにご留意ください。

    とはいえ、粒のような模様が付けられたフィリグリー細工が多いのも事実。多くの方がイメージするのはこの粒・縞模様が施されたものなのではないでしょうか。ワイヤーを撚り合わせたり、工具で刻み込んだりすることによりこの模様が施されます。

    下のゴールドアップリケはマケドニア王国の墓から出土したもので、推定製作年代は紀元前4世紀4thクオーター~紀元前3世紀1stクオーター頃。直系1cm弱とかなり小さな宝飾品です。粒を並べたかのような模様がはっきり見えますね(粒細工が並んでいるのではなく、細い金線をったものです)。

    マケドニア王国のゴールドアップリケ 出典:Musée du Louvre

    それでは定義に移ります。とてもシンプルです。

    フィリグリーとは、伸ばして細い糸状にした金や銀などの貴金属を巻きつけたり、撚ったり、編み込んだり、曲げたり、プレートにロウ付けしたりして作り出す繊細な細工です。特に古い時代にはグラニュレーションと共に施されることが多くありました。現在はほぼこの細工のみで構成されるオープンワークの作品が主流です。ワイヤー表面に粒状に見える縞模様が施されていることがよくありますが、表面がなめらかな細いワイヤーを使用したものも該当します。

    ワイヤーの細さが0.2mm以下などと解説されることもまれにありますが、0.2mm以下という条件では、現在世に出回っているアンティークのフィリグリージュエリーがほぼ該当しないことになってしまいますね。また、中世を過ぎてからは両端にミルグレインのような凸凹加工を施した帯状の金属も使われるようになりました。

    「広義のフィリグリー」と「(時代や地域やデザインを限定した)狭義のフィリグリー」に分けた場合はまた異なった定義もあるかと思います。しかし、その誕生から現代までという長いスパンで考えた場合、前述の定義が多くの専門家にも受け入れられる妥当なものであるといえます。

    多様で幅があり、利用されてきた時代や地域毎の個性が強い技法です。そのバラエティーの豊富さがアンティークジュエリーファンの心を惹きつけるのでしょう。

     フィリグリーの誕生

     いつ誕生したのか、ということをお話しする前に、ごくごく簡単に関連する歴史(と少し地理)のおさらいをしておきましょう。基礎知識が頭に入っていると以降の解説がすんなりと頭に入ってくるかと思います。なお、詳細な年代等についてはさまざまな説がありますので、あくまでも大局を見るための参考情報ということでご認識ください。

    古代メソポタミア文明:
     世界最古の文明といわれています。紀元前3500~3000年頃、チグリス川とユーフラテス川にはさまれたエリア(現在のイラク南部にあたります)に都市国家を築き始めた事により興りました。学問的には紀元前539年の新バビロニア王国の滅亡が古代メソポタミア文明の終焉ということになっています。

    古代エジプト文明:
    ナイル川流域に生まれました。紀元前3000年頃に始まった第1王朝から、紀元前30年に終わったプトレマイオス朝までの時代を指します。それ以前のエジプト先王朝時代は含まれません。前述のメソポタミアに近接しており、交流もありました。

    エトルリア文明:
    日本では、メソポタミアやエジプトに比べいまひとつ馴染みがないかもしれませんね。紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろ、イタリア半島中部でエトルリア人によってもたらされた文明・都市国家群です。エトルリア文明の非常に高い建築技術や芸術性は古代ローマ帝国に引き継がれました。

    マケドニア王国:
    紀元前7世紀頃~紀元前148年。古代ギリシャ人が建国しました。そのほとんどが現ギリシャ北部に属していますが、他にアルバニア、北マケドニア共和国、ブルガリアの一部にも広がっていました。あのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)はマケドニアの君主の一人です。

    それでは本題に入りましょう。 

    先ほど定義についてお話ししましたが、意外とシンプルでしたね。「伸ばして細い糸状にした金や銀などの貴金属を巻きつけたり、撚ったり、編み込んだり、曲げたり、プレートにロウ付けしたりして作り出す繊細な細工」がフィリグリーの本質的な定義です。現代ではジュエリー・宝飾品の特別なジャンルとなっていますが、歴史的には宝飾品職人の日常的な仕事のひとつでしかなかったともいえます。

     とてもシンプルな細工ですので、どこかで「発明」されてそれが各地に伝わっていった、という単一起源的な流れは無いと考えた方がよいかもしれません。実際、紀元前3000年頃、メソポタミアとエジプトで同時並行的に使われるようになったといわれています。最初にメソポタミアで誕生したとする説もありますが、現代までの5000年という長い期間を考えれば、仮に数百年の違いがあったとしても誤差の範囲。誕生はほぼ同じくらいの時期と考えてよいでしょう。なお、両文明の間には戦争を含めある程度交流がありましたので、どちらか一方の技術が他方に伝わったということも否定はできません。

    ※紀元前5000年頃エジプトで誕生した、という解説もまれに見かけますが、広く支持されている説ではありません。ブルガリアのヴァルナ墓地遺跡から出土した(世界最古といわれる)金製品が紀元前4600年頃のものとされているということと、エジプトのフィリグリーの歴史が混ざってしまったようです。なお、ヴァルナ墓地の出土品にも金のリング的なものはありますが、あまりにも太すぎますし、繊細さに欠けています。

     ヴァルナ遺跡から出土した金の宝飾品ヴァルナ墓地遺跡の出土品 出典:Varna Official Visitor Guide

    メソポタミアとエジプトに戻ります。

    まずはエジプトから。
    エジプト、メソポタミア両文明のものを比べた場合、初期の頃はエジプトのものの方がよりシンプルだったようです。ベースとなる宝飾品に貼りつけたり編んで使用したりすることもありましたが、ネックレスなどのチェーンの環を作る目的での利用が主でした。

    誕生からかなり時代が下った紀元前14世紀頃のものですが、古代エジプトの代表的な作品を見てみましょう。

     古代エジプトのフィリグリー細工入りアンティークリングアシュバーナムの指輪 出典:The British Museum 

    エジプト第18王朝、トトマス3世王(紀元前1490~36年)の時代に作られたシグネットリング(当時は粘土に押し付け模様を浮き出させていました)です。表に刻まれている内容は「プタハ神に愛されしトトメスの美しき顔」、裏にはファラオのトトメス3世の妻の名と「全世界の大いなる恐怖」という象形文字が刻まれています。これは周囲の都市をことごとく侵略していたファラオの銘だそうです。なんだか恐ろしいですね。

    シャンクのショルダーあたりに巻かれているプレーンなワイヤーも前述の通りフィリグリーに分類されます。ワイヤーの太さに突っ込みを入れたくなりますが、この指輪の台座幅は1.85cmしかありません。ワイヤーはけっこう細いのです。

    エジプト第18王朝末期のツタンカーメン王(紀元前1336〜27年)の墓か出土した副葬品もご覧ください。

     フィリグリー細工の施されたゴールドブレスレット(ツタンカーメン王墓)ツタンカーメン王のブレスレット 出典:ExpoToutankhamonParis

    このブレスレットにはフィリグリーだけではなく、グラニュレーションも施されています。アシュバーナムの指輪よりはるかに手の込んだ細工です。アンティークジュエリーの世界でイメージするデザインに少しだけ近づいてきましたね。このブレスレットの美しさ、緻密な仕上げはのちほどご紹介するエトルリアやギリシャのものに比べても遜色ありません。

    ツタンカーメン王の墓からは他にもフィリグリーを利用した副葬品が見つかっています。面白いところではサンダル。ツタンカーメン王が生前に履いていたものと考えられています。

     ツタンカーメン王の墓から出土したフィリグリーで飾られたサンダル出典:Smithonian Magazine

     そろそろメソポタミアに移りましょう。

    くさび形文字や太陰暦が発明されるなど、メソポタミア文明は先進的でイノベーティブでした。貴金属の細工にも秀でており、考古学的発見から、紀元前3000年頃ジュエリーにフィリグリーが使われていたことがわかっています。

    古代メソポタミア文明で最も有名な作品は、ウルの王墓から出土した黄金の短剣でしょう。各種副葬品に刻まれたくさび形文字から、ウルの王墓はウル第一王朝期のメスカラムドゥグという貴族のものだとされています。短剣の推定製作年代は紀元前2500年頃です。

    メソポタミア文明のフィリグリー製短剣出典:NATIONAL GEOGRAPHIC

     持ち手の青い部分は古代定番の宝石ラピスラズリです。金で作られた鞘には粒細工も施されています。紀元前2500年の作品とは思えないほど素晴らしい出来栄えですね、驚きです。

    ウルの王墓の出土品をもう一つご紹介します。ビーズといえばよいのでしょうか、ゴールド製のネックレスパーツです。パーツの長さは2cm程度、かなり細かい細工といえるでしょう。

     アンティークのゴールドビーズ出典:Sumerian Shakespeare

     この時代では宝飾品・プレートにロウ付けして使用することが主でしたが、ウルの王墓の短剣のようにレースのようなオープンワークの宝飾品の製作も始まっています。

     古代におけるフィリグリー細工

    そろそろページが重くなってきましたので、ささっと進めていきましょう。

    西欧では、文明発祥時から4世紀末(ローマ帝国の滅亡)までの期間を古代(文明)と呼びます。何をもって文明というかは学者により説が異なるため、古代文明の始まりの時期は明確に定義されていません(紀元前3500~3000年頃のエジプト・メソポタミア両文明という説が最も多いです)。

      先ほどご説明させていただいたエジプト、メソポタミア両文明に引き続き、紀元前550年から紀元前250年ごろエトルリアとマケドニア王国においてフィリグリーの技術は絶頂に達したといわれています。なお、エトルリアに金細工の技術が伝わったのは、紀元前8世紀頃のオリエンタリストと呼ばれる時代。その名の通り、オリエント文明(主にエジプト、メソポタミア両文明)の文化や芸術に影響を大きく受けた時期です。

    エトルリアの金細工はその技術の秀逸さと美しさから現在でも非常に高い評価を得ています。単にエジプトやメソポタミアのものを発展させたというだけではなく、他には無いスペシャルな魅力を持った作品を多く生み出したのです。

    冒頭でエトルリアのペンダントをお見せしましたが(3つ目の写真)、フィリグリーとグラニュレーションを使用したもう一つの有名な作品をご紹介します。

    エルトリア時代のフィリグリー作品(アケローオスの顔)アケローオス神のペンダント 出典:Wikimedia Commons

    この時代の金製品はエトルリア人の多くの墓に副葬品として納められ、19世紀の発掘作業により再び日の目を見ることとなりました。素晴らしい技術で作られたこれら金製品はその後のジュエリー界に大きな影響を与えたのですが、そのあたりの事情は次号であらためてお伝えいたします。

     マケドニア王国でも凝った細工を使用した金製品が多く製作され、ヘレニズム時代(紀元前4世紀から紀元前1世紀)の墓から金のフィリグリージュエリーが出土しています。以下の写真はテッサロニキ考古学博物館に収蔵されている金のブレスレットです。

     ゴールドブレスレット(マケドニア王国時代)出典:Wikimedia Commons

     ベースとなる宝飾品の上に貼りつけるスタイルではなく、フィリグリーのみで構成された、かなり進歩した作りです。なお、本記事4つ目の写真(ゴールドアップリケ)もマケドニアの宝飾品です。かなり先に進みましたので、お忘れの場合はぜひ戻ってご確認ください。

    金細工という観点で古代において重要な文明は、これまでにご紹介したエジプト、メソポタミア、エトルリア、マケドニアの4つですが、他にも数か所で金細工の宝飾品が製作されていました。

    エトルリアやマケドニアより前の時代、キプロスやサルディーニャなどでそこそこ繊細な作品が作られています(フェニキア人の遺跡から出土)。時期はざっくり紀元前15世紀~紀元前8世紀頃、年代の詳細は不明です。

    クリミアにあるスキタイ人の墓からも金の撚線を編み込んだブレスレットやネックレスが出土しています。これらもフィリグリーと呼んでよいでしょう。スキタイ人は紀元前7世紀から紀元前3世紀頃に中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までを領土としていた騎馬遊牧民族。領土の最西端は現ルーマニア近辺ですので、隣接するマケドニア王国と文化面での交流があったものと思われます。

    最後にもう一つ、北欧にも紀元前100年頃に地中海地域から渡来した金細工職人によってフィリグリーの技術がもたらされました。紀元8世紀~と先の時代になりますが、バイキングのフィリグリージュエリーをご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。

    お疲れさまでした、第1部はここで終了です。ジュエリーの解説というより歴史書のようになってしまい、退屈ではありませんでしたか?
    おひとかたでもここまでたどりついていますように。。。

    それにしてもはるか昔にこれだけの素晴らしい作品が作られたことに驚くばかりです。古代エトルリアの金製品の中には、当時の製作方法が解明できないため、現代の金細工技術をもってしても再現不能とされているものもあるそうです。

    中世以降の歴史は次号でお伝えいたします。

    最後までお読みいただきありがとうございました!

    次号はこちら:「フィリグリーの歴史(2)中世からマイユの謎まで・完結編