フィリグリーの歴史(2)中世からマイユの謎まで・完結編

Bonjour 皆さん!オーナーのラファエルです。

前号「フィリグリーの歴史(1)誕生と古代」に続く本号は、中世からスタートして、フィリグリーのマイユ(環)で構成されたジュエリーがフランスで流行するまでの歴史を完結編としてお届けいたします。

 あまりにも長い前号を最後まで読み切った猛者の方はいらっしゃるでしょうか?「長すぎる!要点を絞って読みやすくなるように工夫せい!」という苦情を主に我が奥様からたくさんいただきました。あれでもかなり絞ったつもりなのですが、どうしてもきっちり整理したいというA型気質のため、なかなか短くまとめることができませんでした。今回はできるだけコンパクトになるよう努力いたします。

皆さまには多様な情報をお届けしたいところですが、世界全体に対象を広げると前号同様に大変長くなってしまいそうですので、今回はどうしても触れざるを得ない一部例外を除きヨーロッパに絞ってお届けすることとしました。

以下の構成でお伝えいたします。

  • 全体のサマリー
  • 地中海沿岸
  • ポルトガル・スペイン(イベリア半島)
  • ブリテン諸島
  • アイリッシュ フィリグリー
  • 北欧
  • マイユ フィリグリー(フランス)

サマリー

フィリグリー細工の技術は、中世以降、アジアを含む世界各地に広がりました。例えば古代ギリシャの影響が色濃く残るインドの細工は、依然として人気を誇っています。

一般的に 中世とは4世紀末から14世紀くらいまでの約1000年間を指しますが、今回は「中世」「近世」という区切りを設定せずに、「中世以降」というくくりで進めていきます。ターン・オブ・ザ・センチュリー期(1900年前後)にフランスで流行したマイユ系のジュエリーで解説を終了する予定です。日本のフランスアンティークジュエリーファンの方々に人気のアイテムですので、最後までお付き合いください。

それではまず中世以降の歴史をざっとサマリーしておきましょう。

中世においてヨーロッパ全域で見られる(キリスト)教会系宝飾品の多くには、フィリグリーの装飾や縁飾りが施されていました。教会系の宝飾品とは、聖遺物箱、十字架、福音書の表紙、クロジエ(司教が祭式の時に手に持つ杖)などです。

アンティーク フィリグリー細工の十字架東ローマ帝国の十字架(11世紀頃) 出典:サザビーズ

フィリグリー細工の施された福音書の表紙(ロシア)古代ロシアの福音書表紙(12世紀) 出典:ロシア国立図書館

多くの中世の宝飾品は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブル(トルコ・イスタンブールの前身)で製作されたもの、あるいはそれらのスタイルを模倣してヨーロッパ各国の金細工職人が製作したものでした。

13世紀以降は、メタルベースに貼りつけるタイプの細工よりも、オープンワークスタイルのものが主流となり、15世紀頃まで流行しました。

その後フィリグリー人気はいったん下火となりますが、17世紀頃から再び各地で流行、19世紀に入ると、イタリアにおけるエトルリアやギリシャ遺跡の発掘を契機にエトルリア様式の金細工技法を用いたジュエリーが再び登場します。

さらに、フランスでは19世紀末頃から20世紀初頭にかけて、フィリグリーのマイユ(環)が連なったネックレスやブレスレットが人気を博しました。

それではヨーロッパ各地の歴史について解説していきます。南の方から順に北に上がっていきましょう。

地中海沿岸

古代においてフィリグリーが発展していった地域(メソポタミア、エジプト、マケドニア、エトルリア)は地中海の東方面に集中しています(前号をご参照ください)。中世に入ると、西方も含め地中海に面した地域全般に広まっていきました。ポルトガル、マルタ、アルバニア、ギリシャ、北マケドニアなど多く地域では現在もこの細工技法を用いた宝飾品が作られています。

特に地中海の西端に位置するイベリア半島(スペイン、ポルトガル)では、独特の進化を遂げていきました。

ポルトガル、スペイン

スペインやポルトガルに北西アフリカからアラブ系のムーア人が移住してきたのは8世紀頃。移住といえば聞こえがよいですが、実質的にはムーア人によるイベリア半島の征服です。彼らは高度なフィリグリー細工の技術を持っており、イベリア半島全域にこの技術を広めました。紀元前2000年頃のものと思われる作品がイベリア半島で発見されていますが、これは航海者等が他所から持ち込んだもので、当地で製作されたものではないと考えられています。

その後スペインにおいてはフィリグリー系宝飾品の重要性が低下していきましたが、ポルトガルではむしろその技術がさらに磨かれ、独自のイメージ、モチーフを持つまでに進化しました。ご覧になったことのある方も多いかと思いますが、特にヴィアナのハート(Heart of Viana)はポルトガルの宝飾製作の象徴的なシンボルといえます。独自の進化を遂げたとはいえ、やはりムーア系という出自の通りアラベスクな香りが強い作品です。

ヴィアナのハート(ポルトガルのフィリグリー製品)

ヴィアナのハート 出典:Wikipedia

ブリテン諸島

ブリテン諸島はイギリス諸島とも呼ばれます。主要な島はグレートブリテン島とアイルランド島ですので、ざっくりイギリスあたりという認識で大丈夫です。

ブリテン諸島および近辺の北ヨーロッパでは、中世のかなり早い時期(6~7世紀頃)から、アングロサクソン人(5世紀頃に現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたゲルマン系3部族の総称)、ブリトン人(前ローマ時代からグレートブリテン島に定住していた土着民族)、およびケルト人(長くなるため背景説明は省略)がフィリグリー細工を用いた宝飾品を製作していました。それ以外のさまざまな種類の金細工にも熟練していたようです。

いくつか彼らの作品を見てみましょう。以下はアングロサクソン時代(5世紀~10世紀頃)の墓から出土したものです。

アングロサクソンの墓から出土した中世のフィリグリー作品ブローチ&短剣 出典:The British Museum

発見された場所にちなみ、左側は「ドーバーのブローチ」、右側は「カンバーランドの短剣」と呼ばれています。両者とも6世紀後期から7世紀初期の作品。シンプルですが、金線のデコレーションは古代の細工にかなり近いものです。赤石はいずれもガーネットで、他に金、銀、ニエロやガラスなどが使われています。

 2009年にはスタッフォードシャーでもアングロサクソン時代の金銀細工の大量のコレクションが発見されました。7世紀から8世紀にかけて製作されたものとされています。多数の出土品のうち、とても個性的なモチーフの作品をご覧いただきましょう。私のお気に入りの一品です。
 

タツノオトシゴの像 出典:Museum Crush

直前にご紹介したブローチ&短剣と共通点の多いフィリグリー細工がタツノオトシゴ全体を覆っています。

アイリッシュフィリグリー

ブリテン諸島の中でもアイルランドのアイリッシュフィリグリーはひと味もふた味も異なる個性的なデザインを実現しています。少し解説も長くなりますので、ブリテン諸島から章を独立させました。

日本で話題に上ることは少ないですが、グレートブリテンとアイルランドには「インスラアート」(insula art)と呼ばれる芸術様式があります。時期については諸説ありますが、主に7世紀頃から10世紀頃にかけて発展したとされています。”insular"とは「島に関係する」や「島国的な」という意味。あまり聞きなれない英語ですね(私だけ?)。アイリッシュフィリグリーはこのインスラアート期に栄え、11世紀にその絶頂を迎えました

論より証拠、美しい作品たちを見ていきましょう。

タラのブローチタラ・ブローチ 出典:Wikimedia

 トップバッターは知る人ぞ知る、タラ・ブローチです。製作時期は7世紀後半から8世紀前半。あまりの美しさにヴィクトリア女王が複製品をいくつも入手したのは有名な話です。「タラ」はアイルランドの"Hill of tara"(タラの丘)に由来するのですが、実はタラの丘で発見されたものではありません。長くなるため今回はお伝えしないネーミングに関する裏話がありますので、ご興味のある方は検索されてみてください。

このアイルランドの技法は、一風変わった結び目や複雑な模様から構成されます。使用されているのは、始まりも終わりもなく、一本のワイヤーで完結している「ケルト結び目細工」。タラ・ブローチを見ていただければ、先ほどご紹介したアングロサクソンの細工とかなり異なるデザインであることがご理解いただけるかと思います。粒模様の無いプレーンなワイヤーが多用されており、空間をうまく利用した非常に3次元的なデザインです。

宝飾品をさらに二つご紹介します。

・「アーダーの聖杯(Ardagh Chalice)」

8世紀製作のインスラアート作品です。アイルランドのリムリック(Luimneach)で発見されました。 

・「聖パトリックのベルを収めた聖遺物箱」

11世紀頃の作。相続人の庭に長らく埋められていたものが19世紀に掘り出され、アンティーク業者の手に渡った後にアイルランド国立博物館が入手したものです。

アーダーの聖杯(Ardagh Chalice)アーダーの聖杯 出典:Wikimedia

聖パトリックのベルを収めた聖遺物箱 出典:アイルランド国立博物館

いずれもアイリッシュフィリグリーらしい個性のあるデザインが目を惹きます。

北欧

前号でお伝えした通り、北欧には紀元前100年頃にフィリグリーとグラニュレーションの技術が伝わりました。地中海方面から渡来した金細工職人がこの技術を伝えたとされています。

北欧といえば現代ではシルバーのフィリグリージュエリーが有名ですが、本記事では10世紀後半に作られたとされている、デンマークのゴールドブローチをご紹介いたします。10世紀後半といえば、いわゆる「ヴァイキング時代」。船や艦隊で航海し、貿易や新しい土地の征服を行っていた頃です。

グラニュレーションも施された素晴らしい作品をご覧ください。
 10世紀頃のフィリグリーブローチ(デンマーク)デンマークのヴァイキングブローチ 出典:デンマーク国立博物館

マイユ フィリグリー

日本で一番知られているアンティークのフィリグリージュエリーはやはりなんといってもマイユ("maille"、鎖の環)で構成されたネックレスやブレスレットでしょう。
 アンティーク ダブルストランドのフィリグリーブレスレットフィリグリーのダブルストランド ブレスレット

楕円枠の内側をアラベスク模様のフィリグリーで飾ったマイユがいくつも連なるネックレスやブレスレットをご覧になったことのあるアンティークジュエリーファンの方も多いのではないでしょうか。

このスタイルのジュエリーはほとんどがフランス製。フレンチスタイルにインスパイアされて他国で作られたものも全く無いわけではありませんが、ごくわずかです。

これらのジュエリーの多くはターン・オブ・ザ・センチュリー期(1900年前後)に作られています(英語圏ではアールヌーボーネックレスという名前で呼ばれていることもあります)。ただし、1819年から1838年にパリで使用されていた刻印が押印されたネックレスを目にしたこともありますので、遅くとも1838年までにはフランスでこのスタイルの製品が作られていたことになります。

 マイユ系ジュエリーの起源を探るキーポイントは、マイユ(環)とアラベスク模様、そしてネックレスまたはブレスレットというジュエリージャンルでしょう。

 アラベスク(arabesque)は「アラビア風」を意味するイタリア語が語源となっているフランス語です。19世紀のフランスにおけるアラベスク模様の流行は、下記二つの事象が契機となっています。

  1. ナポレオンのエジプト遠征
  2. フランスのアルジェリア侵攻

エジプト遠征が行われたのは1798年~1801年。この時代にフランスで起きたエジプトブームと相まってオリエンタリズムが後押しされました。19世紀初頭のことです。
また、1830年のアルジェリア侵攻により北アフリカのイスラム文化がフランスの文化や製品に大きな影響を与えることとなりました。当店のムーア風ジュエリーの商品説明などでもこのあたりの事情を解説しております。

アルハンブラ宮殿のアラベスク模様装飾アルハンブラ宮殿のアラベスク装飾(14世紀) 出典:Wikitionary

ヨーロッパでは後期ルネッサンスやバロック時代などにもアラベスク風ジュエリーは多く製作されましたが、19世紀は特にフランスでその人気が再燃した形です。

とはいえ、同時期に英国などでもアラベスク風のジュエリーが作られていますし、前段でご紹介した通りイベリア半島では大量のアラベスク模様のフィリグリージュエリーが製作されています。にもかかわらず、これらの国でも楕円マイユタイプのジュエリーはほぼ作られていません。他のヨーロッパ諸国(イタリア、ドイツ、オランダ、etc)も同様。

なぜフランスだけこのマイユのジュエリーが発展していったのか、何か特別な理由がありそうです。

アンティークジュエリーの世界に足を踏み入れてから常に気になっていたテーマで、あまり表には出てこない地方ジュエリーなどにも着目して調べていました。一時期かなり流行したスタイルですので、もちろんパリ以外でも作られていましたが、特にある地域の特産、という背景はありませんでした。

地方ジュエリーを調べていて、あるとき目に留まったのがカリブ海域の西インド諸島。マルティニーク (Martinique) 、グアダループ (Guadeloupe) 、サン・バルテルミー島 (Saint-Barthélemy) などのフランスの海外(準)県で昔から製作されてきた伝統ジュエリーにマイユタイプのネックレスとうり二つのものが存在するのです。

まずは過去からの伝わる伝統に従って西インド諸島で製作されている現行品をいくつかご覧ください。

西インド諸島の伝統フィリグリーネックレス西インド諸島の伝統フィリグリーネックレス

似ているというより、全く同じスタイルと言ってよいでしょう。これらのジュエリーは、現地でマイユ・コンコンブル(キュウリのマイユ)と呼ばれています。キュウリのようには見えないので謎なネーミングでしたが、現地のキュウリを調べて納得。野生のキュウリは、細長いものではなく、オリーブのような形をしているのです。余談ですが、フランス本土ではフィリグリーのマイユをマイユ・オリーブと呼ぶことがあります(さほどポピュラーな呼び名ではありません)。

西インド諸島のキュウリ西インド諸島のキュウリ 出典:AZ Martinique

西インド諸島の伝統ジュエリーを紹介するとあるサイトでは、マイユ・コンコンブルについて以下のように解説しています。

La MAILLE CONCOMBRE Touche subtile des influences bijoutières orientales, indiennes et africaines, le collier dit "à maille concombre" est un bijou composé de mailles de forme ovale dans lesquelles sont insérés des motifs en filigrane (fils de métal torsadés). Simple ou complexe, le motif est identique dans chaque maillon.

訳)
オリエント、インド、アフリカのジュエリーの影響が見事に表れているのが、「マイユ・コンコンブル」と呼ばれるネックレスです。このジュエリーは、楕円形のマイユで構成されており、その中にフィリグリーで作られた模様が巧みに組み込まれています。シンプルなものも複雑なもありますが、いずれも各マイユの模様はみな同じです。

西インド諸島には17世紀頃から多くのアフリカの人々が奴隷として連れてこられたという歴史があります。これらアフリカ系の方々が17世紀当初から、そして奴隷制が廃止された1848年以降もジュエリーを作り続けていました。彼らの生み出す伝統ジュエリーにはクレオールイヤリングなど世界的に有名なものもありますが、他にも有名無名を問わず驚くほど多くのタイプのものが存在しています。

これら伝統ジュエリーのうち最も種類が多いのはネックレス。"collier-forçat"や、"collier grain d’or"など、マイユ・コンコンブルを含め数多くのスタイルのネックレスが製作されてきました。ご褒美やお祝いとしてマスター(主人)から与えられた少量の金や、貸与された狭い土地で栽培した野菜を売った対価で金を買い、都度リング状(マイユ、環)にして少しづつネックレスを作っていたという歴史があります。

西インド諸島の伝統ジュエリーは主に金または銀製で、独自の模様が取り入れられているのが特徴。これは、アフリカ、ヨーロッパ、交易で訪れたアラブ系民族やインド人、そして先住民の文化要素が融合し生み出されたものです。当時の歴史・文化的背景を調べると興味深いことが多くありますが、長文になってしまいますので、ここでは深入りしないでおきましょう。とはいえ、最低限お伝えしておきたい、いくつかの時代背景を追記しておきます。

  • 1848年の奴隷制廃止以前に、農場主などのマスターが自分の奴隷を宝飾修行の目的でフランス本土に送ることがあった。
  • 奴隷制廃止後、ヨーロッパの文化が一気にアフリカ系の人々に浸透し、アートデザインなども多く取り入れられた。

 では西インド諸島のマイユ・コンコンブルと、フランスのマイユタイプのフィリグリージュエリーにはどのような関係があるのでしょうか。これほど似通っていると、何の関連も無く発展していったとするには無理があります。

考えられるストーリーは3通り。

  1. 西インド諸島の伝統スタイルがフランス本土で取り入れられた。
  2. フランス本土のデザインを西インド諸島の人々が取り入れた
  3. 上記2つのミックス

     グアダループやマルティニークなどの資料も出来る限り調べてみましたが、西インド諸島においてマイユ・コンコンブルが作り始められた時期に関する情報を見つけることはできませんでした。19世紀より前から製作されていた可能性もありますし、奴隷制廃止後に流行した、ということも完全に否定はできません。

     ヒントとなるのはフランスにおける流行のピーク時期。フランス本土においてマイユを用いたジュエリーは19世紀前半からわずかに存在はしていたようですが、花開いたのは19世紀末~20世紀初頭。この間(ま)をどう解釈するかでしょう。

    19世紀前半(もしくはそれ以前)にフランス本土で発祥 奴隷制廃止後に西インド諸島に伝わり、より洗練されたスタイルになる フランス本土に逆輸入

    本ブログでは紹介しきれなかった情報を総合すると、上記ストーリーが自分的には一番しっくりきます。明確なエビデンスはありませんが、一応フランス発祥ながらもカリブ海でより洗練されたものに進化した、ということです。クレオールイヤリングもそのような成り立ちですので、全く的外れということはないでしょう。

    もちろん西インド諸島に関係なく、アラベスクの植物模様が19世紀後半の自然主義やアールヌーボーの流れに乗って流行した、ということも考えられますが、なんでマイユだけなの?という謎は残ります。19世紀前半のイタリアにおけるエトルリアやギリシャの遺跡発掘により古代スタイルのフィリグリー細工を用いたジュエリーが復権したという背景もある程度は影響していると思われますが、こちらも同じくなぜフランスのマイユだけなのかということを説明する根拠にはなりません。19世紀後半のナポレオン3世による新古典主義の復活を持ち出すのも少し厳しいかな、と感じます。

    本場フランス人ディーラーの方々にも事あるごとに疑問を投げかけてはいるのですが、”そこまで深く追求したことないよ”という回答ばかり。まあ、彼らは往々にして不勉強なので、想定通りです。

    マイユ・コンコンブルを製作していた西インド諸島の島々はフランスの一部ですので、どのような経緯をたどったにせよ、フランスで生まれ育ったことは間違いありません。

    結び

    それではそろそろ終了とさせていただきます。冒頭で今回はコンパクトにまとめる!と豪語しておきながら、結局また長文になってしまいました、申し訳ありません。また奥様に叱られそうです。

    19世紀イタリアの遺跡発掘による古代フィリグリーの再発見についても掘り下げて書きたかったのですが、残念ながらタイムアウト。いずれ伝説の宝飾師カステラーニなどと合わせて別な形でご紹介させていただければと思います。

    最後までお読みいただき、ありがとうございました!