マリー・アントワネットとジュエリー

Bonjour 皆さん!オーナーのラファエルです。

ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットの名前は、誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。漫画『ベルサイユのばら』では悲劇のヒロインとして描かれ、その華やかで悲劇的な生涯が読者を惹きつけ、一大ブームを巻き起こしました。

リボンモチーフやロココ様式など、彼女のジュエリーの好みやコレクションは、ナポレオン3世の妻ウジェニー皇后やベルエポック様式の装飾にも大きな影響を与え、後世のジュエリー文化にまで影響を与えました。

本記事では、マリー・アントワネットの生活とジュエリーの関わりを、彼女の内面にも光を当てながら、時系列にご紹介いたします。あまり知られていないジュエリーに関するトピックも取り上げますので、ぜひ楽しみながら読み進めてください。

目次

  1. ウィーンからヴェルサイユへ
  2. 自然とクチュールの美学
  3. 「しきたり」からの解放
  4. 盛り上がる髪型と、夜に輝くストラス
  5. プライベートとジュエリー
  6. 首飾り事件
  7. 革命とジュエリーのゆくえ
  8. おわりに

1.ウィーンからヴェルサイユへ

マリー・アントワネットといえばフランス王妃のイメージが強いですが、もともとはハプスブルク家の一員としてオーストリアで生まれました。彼女の母親は、あの有名な女帝マリア・テレジアです。女帝は一国の君主でありながら、19人もの子供を産みました。アントワネットは子供たち中でも末っ子に近い方だったこともあり、当初は彼女がフランス王妃になるとは、誰も思っていなかったのではないでしょうか。

当時のオーストリア宮廷では、フランス文化への憧れが強く、フランス語やフランス風の生活様式が広く取り入れられていました。ただし、国家としてのオーストリアとフランスは長らく対立関係にあり、ヨーロッパの覇権をめぐって争う宿敵でもありました。ところが、歴史的な外交革命が起こります。敵対していたオーストリアとフランスが同盟を結ぶことになったのです。これによって、当時のフランス国王ルイ15世とマリア・テレジアの間で、後のルイ16世とアントワネットの結婚が決められました。

この結婚は、宮廷内でかなり波紋を呼びました。というのも、当時のアントワネットは教育面で決して優秀とはいえなかったからです。はっきり言ってしまうと学問は苦手でしたし、フランス語も流暢ではありません。さらに、その矯正のため何人も医者が招集されるほど、彼女の歯並びは悪いものでした。

この頃のルイ15世とマリア・テレジアのやり取りを見ていると、まるで若い娘を市場に出すかのような、かなりシビアな交渉が行われていたことがわかります。すべては同盟のため、彼女をフランス王太子妃に仕立て上げようとしていたわけです。

当時の肖像画を見ると、まさに「教育された理想の花嫁候補」という姿で描かれています。衣装も豪華です。フランス風のコルセットを締め、胸元には何連もの真珠。毛皮の縁取りやレースがたっぷりついたドレスを着ています。髪型も、パリから呼んだ美容師によってフランス風のスタイルに整えられ、そこには大粒の真珠が飾られていました。真珠は純潔の象徴。結婚前の若い女性にとって、自分の清らかさを表すとても大切な宝石だったのです。

結婚前のマリー・アントワネットの肖像画結婚前のマリー・アントワネットの肖像画 出典:Wikimedia Commons

しかも真珠は、非常に希少で高価な宝石でした。マリア・テレジアも、形が不やや揃いな真珠を銀とダイヤモンドで留めたイヤリングを愛用していました。少し歪な形の真珠が、銀とダイヤモンドの台座に留められています。

マリア・テレジアのイヤリング(天然真珠、シルバー、ダイヤモンド)天然真珠、シルバー、ダイヤモンドのイヤリング

当時、ダイヤモンドや真珠のような白い宝石を美しく見せるために使われた金属はシルバーでした。シルバーで宝石を引き立てるスタイルは、当時のヨーロッパにフランスから広まった流行です。アントワネットはそれを幼い頃から見て育ち、自分の美意識を磨いていきました。

こうした思い出の詰まったジュエリーや服は、フランスへ向かう国境でいったん手放さなければなりませんでした。国境の小屋で服をすべて脱ぎ、オーストリアの身分を捨てて、フランスの王太子妃として生まれ変わるという儀式があったからです。それまで彼女を包んでいた宝石箱のような世界は、ここで一時的に終わりを迎えることになります。

2.自然とクチュールの美学

マリー・アントワネットがフランスに到着した時には、すでに彼女が宝石、とりわけダイヤモンドと真珠を愛していることはよく知られていました。そのため、マルタン・カーラン(Martin Carlin、18世紀フランスで活躍した高級家具職人)による非常に美しいジュエリーボックスが結婚の際に贈られました。

マリー・アントワネットのジュエリーボックス出典:メトロポリタン美術館

この箱の細部を見ていくと、後に彼女自身の好みとなるモチーフがすでに含まれているのがわかり、とても興味深いです。たとえば、繊細なガーランド(花綱装飾。アンティーク物語『ガーランドとアンティークジュエリー』をご参照ください)や、草花が絡み合う装飾が見つかります。連なる小さな粒状の飾りはまるで真珠のよう。後年のアントワネットの好みを先取りする要素がすでに存在しているのです。

ジュエリーボックスのアップPart1

また、リボン結びや、パスマントリー(※)のような装飾も使われています。こうしたデザインは、18世紀後半のフランスにおける洗練された趣味、自然さと繊細さを重んじる感覚そのものを表した装飾なのです。
※パスマントリー(Passementerie)とは、カーテン、椅子張り、衣服、ランプシェードなどの縁取りに使う、装飾用の飾り紐、タッセル、フリンジ、ブレードなどの総称です。

ジュエリーボックスのアップPart2

こうしたモチーフは、家具だけに用いられたのではなく、彼女のジュエリーや衣装にも繰り返し使用されるようになっていきます。

彼女にとって特に重要なのが、「自然」と「クチュール(仕立て)」という二つのテーマです。花や葉のモチーフは自然への憧れを示し、リボンやパスマントリーは衣服そのものの世界を象徴しています。

もう一つの例を見てみましょう。ウィーンからフランスに持ってきたとされている、シルバーとダイヤモンドの非常に美しいチョーカーです。首にぴったり沿うしなやかなネックレスの前面に大きく優雅なリボンが据えられ、そこからさらにダイヤモンドのペンダントが垂れ下がっています。クチュールのリボンやパスマントリーを宝石で置き換えたかのような発想のデザインです。※残念ながら実物は現存していません。

マリー・アントワネットのチョーカー出典:Wikimedia Commons

3.「しきたり」からの解放

フランス宮廷に迎え入れられたマリー・アントワネットを待っていたのは、気の遠くなるようなしきたりの連続でした。当時のヴェルサイユにおいて、王妃の装いは単なるファッションではありません。フランス流のラグジュアリーを体現し、国の権威を内外に示すための公務そのものだったのです。

その象徴が、肖像画家ヴィジェ・ルブランが描いた大礼服(グランド・アビ)姿のアントワネットです。この絵の中の彼女は、膨大な生地の中に埋もれてしまっているようにも見えます。当時のドレスは仕立て代よりも材料費が圧倒的に高く、ふんだんに使われた生地は、その人の地位や富を象徴していました。

マリー・アントワネット 大礼服出典:Wikimedia Commons

しかし、彼女自身は、こうした重苦しいパニエ(スカートを広げる枠)や、コルセットを着用するのを嫌っていました。そこで彼女は、家柄だけで選ばれた古いしきたりを重んじる側近たちから主導権を奪い、自分の感性で物事を選び始めます。そこで出会ったのが、後に「モード大臣」とまで呼ばれることになる、仕立師のローズ・ベルタンでした。

アントワネットは、一介の商人であったベルタンを専属スタイリストのように扱い、二人で次々と新しいトレンドを生み出していきました。リボン、結び目、タッセル、そしてガルニチュール(飾り)と呼ばれるドレスの装飾の数々。家具にブロンズの装飾を組み合わせるかのように、衣服を自由に、そして過剰ともいえるほどに飾り付けていきました。

あまりに新しいスタイルを追い求め、多額の費用を投じる彼女の姿は、周囲から「ファッション・ヴィクティム(流行の犠牲者)」と冷ややかな目で見られることもありました。しかし、彼女が追い求めたのは、押し付けられた王妃という役割ではなく、自分自身の美意識を形にすることだったのです。そして、このテキスタイルの世界で生まれた装飾の数々は、彼女が愛したジュエリーのデザインへと、そのまま引き継がれていくことになります。

彼女のジュエリーを眺めていると、あることに気づきます。それは、ドレスを飾るリボンやパスマントリーといった柔らかい素材のモチーフが、そのまま宝石で再現されていることです。この点は先ほどの章でも少しご紹介しましたね。アントワネットにとってジュエリーとは、ドレスから独立したものではなく、装いそのものと同じ地平にあるガルニチュールだったのではないでしょうか。

その美意識を見事に現わしているのが、あの有名なダイヤモンドのリボンのペンダントです(中央のイエローダイヤモンドは19世紀になってから加えられたものです)。しなやかに結ばれた二重のリボンのデザインは、まさにクチュールの世界をそのまま宝石に置き換えたかのようです。デザインの根底には、彼女が大切にしていたテーマ、「自然」と「クチュール」が息づいています。
※アンティーク物語『アンティークジュエリーとリボンモチーフ』でも、マリー・アントワネットとリボンについて解説しています。

マリー・アントワネットのリボンブローチ出典:サザビーズ

彼女が愛した花やリボンのモチーフは、やがてフランス革命という荒波に揉まれながらも、失われることはありませんでした。この繊細で華やかな美意識は、後のウジェニー皇后やベルエポック時代の装飾へと受け継がれ、現在でも私たちがアンティークジュエリーに惹かれる大きな理由の一つとなっているのです。

4.盛り上がる髪型と、夜に輝くストラス

装飾へのこだわりはドレスだけでは収まらず、ついには髪型にまで及んでいきます。この時代の宮廷では、髪の毛はもはや飾りを載せるための土台のようなものでした。

よく知られているのがプーフ(pouf)という高く盛り上げたスタイルです。馬の毛を芯にして、粉を振った髪をうず高くまとめ、その上に小さな庭園や建物、そして羽飾りなども載せていました。一番驚くのはラ・ベル・プール(La Belle Poule)という髪型でしょう。フランスの軍艦の名前なのですが、なんと船の模型を頭の上に載せて、帆やリボン、真珠でデコレーションされていました。

La Belle Poule の Pouf軍艦を載せたプーフ 出典:Wikimedia Commons

もちろん、プーフにはジュエリーも欠かせませんでした。ふんわりと巻いた髪のあいだには真珠が巻き付けられ、仕上げにはエイグレット(Aigrette)という羽根飾りのジュエリーが添えられました。本物の羽根と、宝石で作られた羽根。アントワネットはその両方を組み合わせて楽しんでいたようです。

パリ装飾美術館(Musée des Arts Décoratifs)には、エイグレットの素晴らしい見本があります。興味深いのは、羽根の根元に小さなリボンがあしらわれている点です。これまで何度もご紹介させていただいた「クチュール」のモチーフがまたここでも現れているのです。(このエイグレットはマリー・アントワネット自身が着用していたという確証はないのですが、当時の彼女の好みに非常によくマッチしていますので、彼女のものであった可能性は高そうです)

ストラスとシルバーのエイグレット出典:Couleur XVIIIe

こうしたジュエリーについて、ちょっとした裏話があります。実は、当時のジュエリーに留められていた無色透明の石のすべてが、必ずしも本物のダイヤモンドだったわけではないのです。18世紀後半のフランスでは、ストラス(strass)という模造ダイヤモンドが爆発的に流行していました。ちなみに先にご紹介したエイグレットも、パリ装飾美術館の説明に”strass taille briolette”と記載されています。

ストラスは職人ゲオルク・フリードリヒ・ストラスが開発した高屈折の鉛ガラスで、当時は決して単なる偽物という扱いではありませんでした。というのも、当時はまだ電気がなく、夜の明かりはロウソクだけ。そのゆらめく光の中では、ストラスは本物のダイヤ以上に強く、きれいに輝いたからです。アントワネット自身もこの輝きを気に入り、ストラスを身につけることは「最新の流行を分かっている」という、おしゃれなステータスでもありました。

本物の宝石を使ったジュエリーは、後で分解されて別のデザインに作り替えられてしまうのが普通でした。そのため今となっては、作り替えられることのなかったストラスのジュエリーの方が、当時のままの姿で数多く残っています。当時の宮廷の本当の姿を今に伝えてくれているのが、実はこの模造ダイヤの方だったというのは、ちょっと皮肉で面白いですね。日本ではなかなか評価されないのでめったに仕入れることはありませんが、私は18世紀末~19世紀頭頃の古いストラス製ジュエリーにとても魅力を感じます。

5.プライベートとジュエリー

ルイ16世は、アントワネットに宮廷とは異なる安らぎの空間、時間が必要であることを理解していました。彼女は厳格な儀礼や慣習に囲まれた生活に息苦しさを感じており、より自由なプライベート空間を求めていたのです。そこで王は、500石以上のダイヤモンドで飾られた鍵をアントワネットに贈りました。ヴェルサイユ宮殿の敷地に建つ建物、あの「プティ・トリアノン」の鍵です。

プティ・トリアノン 動く鏡の間プティ・トリアノン 動く鏡の間 出典:Wikimedia Commons

プティ・トリアノンは王妃にとっての聖域であり、誰を招き、そこでどう過ごすかはすべて彼女自身の思いのままでした。もっとも、この場所はもともとルイ15世が愛妾ポンパドゥール夫人のために造らせたものであり、その後も次の愛妾であるデュ・バリー夫人が邸宅として使っていたという経緯があります。そうした「王の愛人のための館」という由来もあり、外部の人々からは、王妃が愛人と噂されていたフェルセンと密会を重ねているのではないかといった、よからぬ憶測を呼ぶことにもなりました。

しかし実際は、その誇張されたイメージとは異なり、穏やかで平穏な生活をおくるための場所であったようです。私もヴェルサイユ宮殿訪問時にプティ・トリアノンの内部を見学したことがありますが、優雅で落ち着いた空間だったという印象が残っています。

ここでは宮廷で求められる華美さや厳格さに縛れることがなく、装いも軽やかになりました。この環境の変化は、彼女が身に着けていたジュエリーにも現れます。宮廷の公的な場で身につけるジュエリーは、権威や格式を示す役割を持っていましたが、この私的空間で重んじられたのは、身につける本人にとっての心地よさや、自身の嗜好でした。大粒の宝石や壮麗なパリュール(ジュエリーのセット)ではなく、小型で扱いやすく、細部にまで意匠を凝らしたジュエリーが愛用されていたのです。

現存するサンプルを一つご紹介しましょう。彼女が所有していたこの小さな懐中時計には、繊細なエナメル装飾が施され、小粒の真珠が上品に留められています。細部の意匠には徹底的にこだわりながらも、過度な装飾が避けられたデザインといえるのではないでしょうか。宮廷肖像画などで見られる壮麗な宝飾とは明らかにイメージが違いますね。

マリー・アントワネットの懐中時計マリー・アントワネットの懐中時計

プティ・トリアノンでは、権威や格式、華美さよりも自身の嗜好や心地よさを優先する姿勢が、家具、食器類や室内の装飾などにも見られました。たとえばガーランド装飾や、真珠を思わせる小さな粒が連なる縁取りといった意匠が多く用いられています。ここは単なる離宮ではなく、装いと装飾のあり方を自分の嗜好に合わせて切り替える場でもあったのです。

センチメンタルジュエリーと真珠

1780年代、プチ・トリアノンの奥に、ノルマンディー風の田舎家をイメージした隠れ家的な村「王妃の村里(Hameau de la Reine)」が作られました。湖畔の王妃の館や水車小屋、農園が配置された、牧歌的な場所です。幾何学的なデザインで設計されたヴェルサイユの庭園とは対照的に、ここでは自然の不規則さと落ち着いた雰囲気が広がっていました。

ここで重視されたのは、感情、気持ちです。ただ、それは決して激烈なものではなく、もっと繊細で、もっと感傷的なものです。この感覚は18世紀後半の思想、とりわけ感情や自然を重視するルソー的な潮流とも重なります。

その延長に位置づけられるのが、センチメンタルジュエリー(bijoux de sentiment)です。18世紀末から19世紀にかけて、ジュエリーに求められる価値は大きく変化します。人々はジュエリーに「大切に思う価値(valeur chérie)」を与えるようになりました。価格や素材の希少性といった経済的な価値ではなく、個人の記憶や他者との関係に結びついた感情的価値が重視されるようになったのです。こうした価値の変化の中で、ミニアチュールや髪を収めたものなど、個人の感情と結びついた、センチメンタルジュエリーが広く作られるようになったのです。

具体例を見てみましょう。アントワネットのミニアチュールを収めたリングです。中央に置かれたミニアチュールの周りをダイヤモンドが囲んでいます。革命期に王妃から娘マリー・テレーズへと託され、そのまま彼女に受け継がれました。このリングに価値があるのは、(多少のダイヤモンドを除き)そこに王妃のミニアチュールがあるからです。彼女の肖像があるからこそ、今日まで残ったのだといえるでしょう。

こうしたジュエリーの本質的な価値は、感情、センチメントというものに集約されます。極論すれば、その人物を知る者や、その人物に感情的なつながりを持つ者にとってのみ意味を持つ価値である、ともいえるのです。

マリーアントワネットのミニアチュールリング出典:GIA

彼女にまつわるセンチメンタルジュエリーをもう一つご紹介します。マリー・アントワネットのイニシャルであるMとAが絡み合う、ダイヤモンドのモノグラムリングです。リングの内部に彼女の髪が納められています。もちろん髪そのものには経済的価値はなく、センチメンタルジュエリーとして、感情の価値、象徴的価値に重きが置かれているのです。

マリー・アントワネットのモノグラムリング出典:EPA

このようなセンチメンタルジュエリーと並んで、アントワネットにとって重要な位置を占めていたアイテムは真珠です。本記事の第1章でご紹介した、結婚前の肖像画でも身に着けていましたね。彼女の肖像画をいくつか見てみると、真珠のジュエリーを身に着けているものがとても多いことに気が付きます。

真珠は時代を超えるといわれ、永遠性と象徴性を備えています。当時はまだ養殖真珠が存在せず、すべて天然真珠です。珠の大きさが揃った真珠をふんだんにつかったネックレスは、その希少性や象徴性から、まさに贅沢の極み、洗練の極致ともいえる装飾品でした。そして、アントワネットの真珠のネックレスは後世にも非常に大きな影響を与えました。

その一例が、1999年に競売にかけられた真珠のネックレスです。アメリカの大富豪バーバラ・ハットン(Barbara Hutton)が秘蔵していた一品ですが、かつてマリー・アントワネットの手元にあったという伝承が、落札価格を大きく跳ね上げました。

マリー・アントワネットの真珠のネックレスと、それを身に着けるバーバラ・ハットン

6.首飾り事件

1780年代に入ると、マリー・アントワネットを取り巻く空気は、それまでとは比べものにならないほどトゲトゲしたものになっていきました。「民衆の苦しみも知らず、贅沢三昧で国費を使い果たす赤字夫人」、そんな悪意ある噂や風刺画が巷に溢れる中、彼女を決定的な破滅へと引きずり込んだのが、あの世紀の大事件「首飾り事件」です。この事件はフランスでは"Affaire du collier de la reine"(王妃のネックレス事件)と呼ばれています

ことの発端は1770年代。宝石商のベーマーとバサンジュが、ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人のために作った、とてつもないダイヤモンドの首飾りでした。5〜8カラットの大粒ダイヤ17石を連ねたチョーカーに、さらに大きな6石を含む3つのペンダント。極めつけは、真珠のように連なって胸元で交差し、背中まで回り込む二重のダイヤの列です。そこへ当時大流行していた房飾り「ポンポン(パンピーユ)」の装飾がぶら下がる、まさに当時の贅を尽くした逸品でした。

マリー・アントワネットの首飾り事件のネックレス(レプリカ)首飾り事件のネックレス(レプリカ) 出典:Wikimedia Commons

ところがこのネックレスの完成直前にルイ15世が急逝します。このネックレスを制作するために全財産を注ぎ込んでいた宝石商たちはパニックになりました。彼らは藁をも掴む思いで新王妃であるアントワネットに売り込みますが、彼女はこれをきっぱりと拒絶。「もう十分持っていますから」というのが表向きの理由ですが、本音は、自分が嫌っていた「前の王の愛妾」のために作られた品など、身につけたくもなかったのでしょう。

ここで、この宙に浮いた巨額のネックレスに目をつけたのが、詐欺師のラ・モット伯爵夫人でした。彼女はアントワネットの寵愛を得て政界に返り咲きたいと焦っていたロアン枢機卿を獲物に選びます。ロアン枢機卿はラ・モット伯爵夫人が偽造した王妃からの手紙を信じ込み、彼女の役に立つことで地位を得ようと暴走してしまうのです。ちなみに、王妃は彼を嫌っていたといわれています。

計画はさらに大胆になります。ヴェルサイユの暗い夜の庭園で、顔を隠した偽の王妃(実は似た背格好の娼婦)が密会を演出し、枢機卿に一輪の薔薇を渡したのです。すっかり騙された彼は、王妃のためにと首飾りを買い取り、ラ・モット夫人に託してしまいます。首飾りは即座に解体され、バラバラにされたダイヤはロンドンで売り払われてしまいました。

ロアン枢機卿と偽のアントワネット偽の王妃と跪くロアン枢機卿

宝石商たちが宮廷へ代金の督促に現れ、事件が表ざたになりました。もちろん王妃は驚いて、そのようなネックレスは受け取っていないと伝えます。しかし、その後の公開裁判で枢機卿が無罪となったことで、世論は思わぬ方向へ向かいました。真犯人の嘘よりも、民衆は贅沢好きの王妃が枢機卿をハメたのだ、という物語を信じたがったのです。

身に覚えのない罪で、アントワネットの名声は決定的に傷つきました。これを断頭台への最初の一歩、と呼ぶ人もいます。

7.革命とジュエリーのゆくえ

首飾り事件という理不尽なスキャンダルを経験し、マリー・アントワネットが置かれた状況は絶望的なものになっていきました。革命の混乱が迫る中、彼女は自分たちの処刑や亡命という最悪の事態を確信していたようです。

当時、王室の宝飾品は国家の所有物でしたが、彼女は自分が嫁入りで持参したものや、私費で購入したものを私有財産として切り分け、子供たちの将来のために守ろうとします。自らの手でジュエリーを仕分け、ひとつひとつ綿でくるみ、木箱に詰め込みました。

この木箱は、彼女の兄が統治するウィーンへ送られることになります。ただし、フランスから直接ウィーンに送れば没収される可能性があるため、まずは信頼するオーストリア大使メルシー・アルジャントー伯爵の拠点であるブリュッセルへ送り、ほとぼりが冷めるのを待ち、その後ウィーンに送るというルートが選ばれました。この際、メルシー伯爵が作成した詳細な受領書(目録)には、ジュエリーの数や種類だけでなく、「どの石がどの衣装のためのものか」といった彼女の個人的なメモに近い記述まで残されていました。

1793年に王妃が処刑された後、この木箱はウィーンへ運ばれましたが、すぐには開封されませんでした。唯一生き残った長女マリー・テレーズがまだフランスで監禁されていたため、オーストリア皇室は彼女が解放されるまで、一切手を出さずに保管し続けたのです。

マリー・アントワネットと子供たちマリー・アントワネットと子供たち 出典:Wikimedia Commons

1796年、監禁から解放されウィーンに到着したマリー・テレーズに、ようやくこの木箱が手渡されました。家族を失った彼女にとって、これらのジュエリーは美しく着飾るための装飾品ではなく、母が自分のために用意してくれた形見そのものでした。後々までこれらのジュエリーが分解やリフォームをされることなく受け継がれたのは、マリー・アントワネットの遺品という強い心理的なブレーキがあったからでしょう。

それから200年以上もの間、これらのジュエリーは一族の地下室の金庫に秘蔵され、歴史の表舞台から完全に姿を消していました。その沈黙が破られたのは、2018年のサザビーズ・オークションです。

そこで再び世に出たコレクションは、宝飾界に大きな衝撃を与えました。通常、200年も経てば真珠はタンパク質の劣化で輝きを失うものですが、このコレクションの真珠は、採取直後のような輝きを保っていたのです。これは、アントワネットが宝石を包んでいた綿が湿気や光を防ぎ、ウィーンの地下室の安定した気温が、有機物である真珠にとって完璧な保存環境になったためであるといわれています。

天然真珠とダイヤモンドのペンダント天然真珠とダイヤモンドのペンダント 出典:サザビーズ

もちろんダイヤモンドも当時のカットのままでしたし、18世紀の職人たちの技がそのまま手つかずで残っていました。古いデザインのアンティークジュエリーはリフォームされることが多いヨーロッパにおいて、200年以上前のジュエリーのコレクション全てが当時の姿のまま残っていることは、非常に稀なことであるといえるでしょう。

このコレクションを受け継いだブルボン・パルマ家は、ヨーロッパの旧王族の中でも特に保守的で、誇りを重んじる一族でした。彼らにとってこの宝石を売ることは誇りを売ることであり、経済的な窮地に立たされるまで、金庫の奥深くで秘蔵され続けたのです。

8.おわりに

以前から、アンティーク物語シリーズでマリー・アントワネットを取り上げたいと考えていました。とはいえ、彼女の詳細な伝記はすでに数多く書かれており、「所有していたジュエリーの一覧」といった記事も少なくありません。

そこで本記事では、日本ではあまり見かけない視点として、マリー・アントワネットの内面にも触れながら、生活とジュエリーとの関わりに焦点を当てて解説することにしました。

限られた分量のため、王妃の生涯もジュエリーの種類も十分に網羅しているとはいえませんが、彼女とジュエリーとの関わりを知る手がかりとなれば幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!