ルーヴルの悲劇:闇に消えたアンティークジュエリー
Bonjour 皆さん!オーナーのラファエルです。
10月のとある日の朝、いつものようにFire stickに仕込んだIPTVビューワーでフランスのニュース番組を見ていると、フランスの歴史的アンティークジュエリーがいくつか映し出されました。当店のブログ「アンティーク物語」でもご紹介している、ウジェニー皇后の王冠やダイヤモンドのリボンブローチなども含まれています。どうやらルーヴル美術館で強盗事件が発生したようです。
事件は、2025年10月19日に起きました。4人の窃盗団が、ルーヴル美術館ドゥノン翼のアポロン・ギャラリーに陳列されていた、フランス王室・帝室の宝飾品と王冠などを盗み出したのです。
本記事では、この事件の概要を改めて確認し、その後、盗み出されたアンティークジュエリーをご紹介していきます。
以下、「パリュール」(parure)は、同じデザインで揃えられた、ネックレス、イヤリング、ブローチ、ブレスレットなどのジュエリーのセットを指します。フランスのアンティークジュエリーにおいては頻出のワードですので、ご存じでない方は、ぜひこれを機会に頭にお留め置きください。
目次
- 強盗事件のあらまし
- マリー・ルイーズ皇后のエメラルドのパリュールのネックレスとイヤリング
- マリー・アメリー王妃とオルタンス王妃のサファイアのパリュールのティアラとネックレスとイヤリング
- ウジェニー皇后の「聖遺物ブローチ」、ティアラ、リボン飾りのコサージュブローチ
- おわりに
1.強盗事件のあらまし
2025年10月19日の午前9時30分頃、美術館の南側、セーヌ川に面したフランソワ・ミッテラン通りに、4人の人物がスクーター2台とリフトの付いた高所作業車を使って現れました。何人かは、作業員を装うため、蛍光ベストを身に着けています。ルーヴルは9時に開館しますので、その30分後くらいのことです。
犯人たちはリフトのゴンドラを伸ばし、ドゥノン翼(主要な三つの展示棟の一つ)の2階にあるアポロン・ギャラリーのバルコニーに到達。コードレスのディスクグラインダーを使って窓ガラスを破り、2名が内部に侵入しました。警備員をディスクグラインダーで脅した上でフランス王室の宝飾品などが陳列されているガラスケースを破壊、宝飾品9点を持ち出し道路に降ります。外で待機していた残りのチームメンバーと合流し、スクーターで逃走しました。作戦はなんと7分間という短時間で終了しています。
リフト車でアポロン・ギャラリーから脱出する実行犯2人アポロン・ギャラリーから持ち出した宝飾品9点のうち、ウジェニー皇后の王冠は犯人が落としていきましたので(破損した状態で見つかりました)、最終的に8点が盗難にあったことになります。被害総額の見積もりは約8,800万ユーロです。このところ為替レートは乱高下していますが、1ユーロ=175円で計算すると、154億円に相当します。
盗難にあったのは、以下の8点です。
- マリー・ルイーズ皇后のエメラルドのパリュールのネックレス
- マリー・ルイーズ皇后のエメラルドのパリュールのイヤリングの片方
- マリー・アメリー王妃とオルタンス王妃のサファイアのパリュールのティアラ
- マリー・アメリー王妃とオルタンス王妃のサファイアのパリュールのネックレス
- マリー・アメリー王妃とオルタンス王妃のサファイアのパリュールのイヤリングの片方
- ウジェニー皇后の「聖遺物ブローチ」
- ウジェニー皇后のティアラ
- ウジェニー皇后のリボン飾りのコーサージュブローチ
残念ながら、本記事執筆時点では、盗み出された宝飾品は発見されていません。
事件後、比較的早いタイミングで2人の実行犯(34歳と39歳)が逮捕され、さらに5名の容疑者が追加で逮捕されました。追加逮捕者は、検察当局によれば、「犯行の経緯について情報を提供できる人物」であり、逃走のためのスクーターの準備、ロジスティクス支援、情報提供、または計画立案に関わっていた可能性があります。この7人のうち3人は、捜査当局が十分な直接的な関与の証拠を見いだせなかったため、その後、訴追されることなく釈放されました 。
ルーヴル美術館に内部協力者がいる、という説もささやかれていますが、パリ検察庁は、「現段階で、犯罪者が美術館内部のいかなる協力の恩恵を受けたとは断定できない」と明言しています 。今後の捜査の進展が待たれるところです。
あまりにも有名なジュエリーが含まれているため、犯行グループが宝飾品を解体し、宝石単位に処分するのではないかと危惧されています。バラバラに解体するだけでなく、宝石に再研磨や再カットを施す可能性もあるそうです。現状の姿のままで闇のコレクター等の手に渡れば、これまでの例からも、いずれ世に出てくる可能性があります。捜査で発見できない場合は、せめて解体されずに処分されることを祈るばかりです。
※これらの捜査状況は、本記事執筆時点(2025年11月初旬)のものです。捜査状況は随時変化していくと思われますが、本記事ではこの部分に関する更新は行いません、ご了承ください。
事件に使用された高所作業車は、フランス版の総合フリマ・掲示板サイトである、「Leboncoin」というWebサービスで入手したものでした。フランスでは超メジャーなサービスですのでご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、「Leboncoin」の特徴は、日本のメ〇カリなどと異なり、売り手と買い手が直接対面し、交渉の上で商品を即座に手渡しするのが主流である点です。
犯人は、この対面取引の場で売り手から高所作業車を強奪したと報じられています。見ず知らずの人と直接会って高額な取引をするスタイルは、やはり恐ろしい危険をはらんでいるものですね。

話は変わりますが、皆さまはNetflixのオリジナルドラマシリーズ『Lupin/ルパン』をご存じでしょうか。映画『最強のふたり』で知られるオマール・シーが主演を務めています。世界的に話題の人気シリーズで、私も配信直後から見ていました。
実は、このドラマのシーズン1の第1話が、今回の事件と微妙に似ているのです。主人公がルーヴル美術館のオークション会場に入り込み、「マリー・アントワネットの首飾り」を盗み出すというストーリーで、途中、清掃員に扮するために作業着を着ていたところも、今回の事件を想起させます。
事件のニュースを初めて目にしたときに、強いデジャヴュ感があり、このドラマを思い出しました。フランス内外のメディアでも「まるでNetflixの『Lupin/ルパン』のようだ」と大きく報じられています。このドラマを見て犯行に走ったのではないか、とまで解説している記事もありました。ドラマと実際の事件では相違点も多いので、「ドラマの真似をした」ということでは無いのでしょうが、犯行を思いつくきっかけになった可能性は十分にあると思います。
2014年と2015年の監査において、館内に設置された監視カメラにアクセスするパスワードが「Louvre」という誰でも思いつくワードであったことが明らかになりました。また、館内のシステムでは、マイクロソフトのサポートがほどなく終了する「Windows 2000/XP/Server 2003」が稼働していたそうです。いやはや、何事にも(よく言えば)おおらかなフランス人らしいですね。その後、この10年間でルーヴル美術館のスタッフがこれらの問題を是正したのかは不明だそうです。
いろいろ横道に逸れてしまい、失礼いたしました。それではこれから盗難にあった宝飾品がどのようなものであったかをご紹介させていただきます。
2.マリー・ルイーズ皇后のエメラルドのパリュールのネックレスとイヤリング
マリー・ルイーズ皇后
マリー・ルイーズ皇后の肖像画 出典:Wikimedia Commons
マリー・ルイーズ皇后は、ナポレオン1世の2番目の皇后です(1番目の皇后ジョセフィーヌは、世継ぎを産めなかったために離婚を余儀なくされました)。父親はハプスブルク家のオーストリア皇帝フランツ1世。その娘であるマリー・ルイーズはオーストリア大公女という称号を持っていました。同じくオーストリア大公女の称号を持っていたマリー・アントワネットは、マリー・ルイーズの大叔母にあたります。
実は、マリー・ルイーズを含むオーストリアの王族は、ナポレオンを「食人鬼」と呼び恐れていました。マリー・アントワネットを処刑したフランス革命勢力が得た力を背景に、ヨーロッパを征服した「敵」であると見なしていたからです。しかし、ナポレオンは世継ぎの確保と帝政の権威という切実な必要性からマリー・ルイーズに求婚しました。彼女がこの政略結婚を嫌々ながら受け入れたのは、オーストリアがナポレオンとの同盟で戦争の荒廃と敗北を避け、国家の安定と存続を優先せざるを得なかったからです。
パリュールの由来
本エメラルドのパリュールは、1810年の結婚の際にナポレオン1世がマリー・ルイーズ皇后に贈ったものです。このパリュールには、盗難にあったネックレス、イヤリング以外に、ティアラ、ベルトのバックル、櫛も含まれていました。ナポレオン1世がこのパリュールを発注したのは、現在のショーメ(Chaumet)の前身にあたるニト宝飾店。創業者であるマリ・エティエンヌ・ニトとその息子フランソワ・ルニョー・ニトが経営していたため、エティエンヌ・ニト・エ・フィス(Etienne Nitot et fils)とも呼ばれていました。創業者のエティエンヌは1809年に亡くなっていますので、このパリュールを制作したのは息子のフランソワでしょう。
ナポレオン失脚を契機に、マリー・ルイーズは1814年にこのパリュールと共にパリを離れます。エメラルドのパリュールは、ハプスブルク家の親族に遺贈され、その子孫たち所有していました。ただし、セット全体で管理されていたという通説とは異なり、親族間で分割され、所有されていたようです。
ネックレスとイヤリング
ネックレスとイヤリングは、とあるプライベートコレクターの手に渡っており、2004年にルーヴル美術館がその所有者から370万ユーロで購入しました。これは当時、美術館が一つの宝飾品に支払った最高額であったと記録されています。
エメラルドのネックレス 出典:Wikimedia Commons
ネックレスは、10個のペアシェイプを含む計32個のエメラルド(最大のものは13.75カラット)、874個のオールドカットダイヤモンド、そして264個のローズカットダイヤモンドという、息をのむような構成です。透明度の高いオーバルとスクエアの大きなエメラルドが交互に配置されており、小さな丸いエメラルドをはめ込んだパルメット装飾がこれらのエメラルドを繋いでいます。特に印象的なのは、それらの大粒のエメラルドから吊り下げられたペアシェイプのエメラルドでしょう。
エメラルドのイヤリング(ペア) 出典:Wikimedia Commons
イヤリングの主役も、それぞれダイヤモンドに囲まれた、スクエアとペアシェイプの大きなエメラルドです。同一のパリュールを構成するピースですので、もちろんネックレスと同じ趣向で作られています。19世紀前半、こうした贅を尽くしたパリュールは、社交界における装いの頂点として女性たちの憧れの的でした。
※このパリュールのイヤリングの「ペア」が盗難にあったという報道も未だ散見されますが、ルーヴル美術館のサイトでも発表されているように、盗難にあったのは、マリー・アメリー王妃とオルタンス王妃のパリュール同様、イヤリングの「片方」のみです。
3.マリー・アメリー王妃とオルタンス王妃のサファイアのパリュールのティアラとネックレスとイヤリング
マリー・アメリー王妃
マリー・アメリー王妃の肖像画(ルイ・エルサン画) 出典:Wikimedia Commons
フランス王ルイ・フィリップの王妃であったマリー・アメリー(マリー・アメリー・ド・ブルボン・シシレ)は、ナポリ王国とシチリア王国の両国を統治していたフェルディナンド1世の娘で、フランス王妃マリー・アントワネットの姪でもありました。
フランス革命とその余波を避けるために約20年間イタリアで亡命生活を送っていた遠縁のオルレアン公ルイ・フィリップと1809年にパレルモで結婚、その後シチリアで過ごし、3人の子供をもうけています。1814年、ナポレオンの失脚(王政復古)を契機に一家はフランスに戻り、マリー・アメリーは「オルレアン公爵夫人」となりました。
1830年の七月革命で夫ルイ・フィリップが「フランス人の王」に即位し、彼女は「フランス最後の王妃」となります。しかし、生まれ育ったブルボン家が王位を失ったばかりだったため、同じ家系の傍流である夫の即位を「大惨事」と呼び、素直には喜べなかったようです。
1848年、王政が倒れると、夫とともにイギリスへ亡命、「ヌイイ伯爵夫人」となります。夫の死後も亡命地で過ごし、1866年に83歳で死去。遺体は1876年にフランスのドルーにあるオルレアン家の墓所に改葬されました。
オルタンス王妃
オルタンス王妃の肖像画 出典:Wikipedia Commons
オルタンス・ド・ボーアルネことオルタンス王妃は、ナポレオン1世の継娘(ジョゼフィーヌ皇后の連れ子)であり、後のフランス皇帝ナポレオン3世の母という、ボナパルト家の栄光と挫折を目の当たりにしてきた人物です。実の父であるアレクサンドル・ド・ボーアルネ子爵は、フランス革命の恐怖政治の最中に処刑されています(ジョゼフィーヌがナポレオンと結婚する前のことです)。
母の意向により1802年にナポレオンの弟ルイ・ボナパルトと結婚し、短期間ながらオランダ王妃を務めました。この結婚から、末っ子としてナポレオン3世が生まれています。なお、ルイ・ボナパルトのオランダ統治はナポレオンの意に沿わず、1810年にオランダはフランスに併合されてしまいました。このため、オルタンスが王妃として在位したのは、わずか約4年間という短期間でした。
宮廷の華として社交界で活躍し、作曲家としても知られ、彼女の作品「シリアに旅立ちながら」は、後にフランス第二帝政の非公式国歌となっています。
ナポレオン失脚後はフランスを離れ、スイスに亡命。アーレネンベルク城で息子たちを育て、1837年に亡くなるまで亡命生活を送りました。彼女の人生は、フランス第一帝政から第二帝政へと続くボナパルト家の重要な架け橋となったのです。
パリュールの由来
このサファイアのパリュールは、ティアラ、ネックレス、イヤリング、小さなブローチ2点、大きなブローチ1点、そして櫛とブレスレット2点で構成されていました。ルーヴル美術館の強盗事件で盗難にあったのは、このパリュールに含まれるティアラ、ネックレスと、イヤリングの片方です。
※このパリュールには、さらにペンダント、リング、ベルトが含まれていたという情報もありますが、ルーヴル美術館などの公式な資料では構成要素とされていません。
このパリュールに含まれる全てのピースは、非加熱のセイロン産サファイアが使用されています。ダイヤモンドで縁取られたこれらのサファイアが留められている台座はゴールドです。
当初はオルタンス王妃が所有し、後にマリー・アメリー王妃、そしてイザベル・ドルレアン(ギーズ公爵夫人)、アンリ・ドルレアン(パリ伯爵)へと代々受け継がれました。ルーヴル美術館は1985年にパリ伯爵からこのパリュールを取得したのですが、すでに散逸していたのか、櫛とブレスレットは入手できませんでした。
最初の所有者であるとされるオルタンス王妃が、このパリュールをジョゼフィーヌ皇后から受け継いだという説もあります(それを証明する証拠はありません)。さらに、実はマリー・アントワネット王妃に由来するものであるという家族の言い伝えもあり、その起源の謎をさらに深めています。せめて制作者が判れば、おおよその制作年代から初期所有者も推定できるのですが、ニトやバプストといった、著名な王室御用達の職人の刻印が見つかっていないため、パリュールに含まれる各ピースの制作者(共同制作者)も不明です。数々の追加や手直しがあったことも、このパリュールの年代の特定を妨げています。
ティアラ、ネックレス、イヤリング
サファイアのティアラ 出典:Wikimedia Commons
ティアラに使用されているサファイアは24個です(目立ちませんが、ごく小さなものも10個留められています)。計1,083個のローズカットとオールドカットのダイヤモンドがこれらのサファイアを囲み、圧倒的な華やかさを生み出しています。
本章の冒頭でご紹介したルイ・エルサンによるマリー・アメリーの肖像画と、イザベル・ドルレアン(ギーズ公爵夫人)の写真肖像画(個人蔵、公開されていません)を比べると、着用しているティアラがわずかに異なっていることが分かるそうです。おそらく1836年以降に小さなサイズにしつらえ直されたのでしょう。なお、現在のパリュールとエルサンの肖像画とではブローチの数が異なりますが、これはティアラがブローチとして分解できるようになっていたためです。
サファイアのネックレス 出典:Wikimedia Commons
ネックレスは、さまざまな大きさのサファイア8個ととダイヤモンド631個で構成されています。 非常に高度な技術で制作されており、全てのパーツが可動式に仕立てられているそうです。
サファイアのイヤリング 出典:Wikimedia Commons
上部に小さなサファイアをダイヤモンドで取り巻いたボタン状のモチーフを配し、その下に、ダイヤモンドで囲まれたしずく形(ブリオレットカット)のサファイアが下げられています。
※盗難にあったのは片方だけです。
4.ウジェニー皇后の「聖遺物ブローチ」、ティアラ、リボン飾りのコサージュブローチ
ウジェニー皇后
正装したウジェニー皇后の肖像画 出典:Wikimedia Commons
ウジェニー皇后は、フランス第二帝政期の皇帝ナポレオン3世の皇后です。「フランス最後の皇后」であるウジェニーは、アンティークジュエリーの歴史においても非常に重要な人物とされています。
スペインの貴族の家に生まれた彼女は、波乱万丈な生涯を送りました。
1853年にナポレオン3世と結婚しフランス皇后となり、約19年間続いた第二帝政期(ナポレオン3世期)の宮廷文化を華やかに彩る存在となっています。マリー・アントワネットに強い憧れを抱いていたウジェニーは、ロココ調のスタイルを好みました。また、クリノリンを取り入れた豪華なファッションで当時の流行を牽引し、特に、オートクチュールの父とされるシャルル・フレデリック・ウォルトを宮廷デザイナーとして重用したことは有名です。
ウジェニー皇后は、ジュエリーをこよなく愛しました。その豪華でエレガントなスタイルや、既存のジュエリーをリメイクするというアプローチは、現在に至るまで高級ジュエリー界に大きな影響を与え続けています。ジュエリーに惜しみなくお金をつぎ込んでおり、推計される購入総額は、なんと現代の数百億円に相当する約360万フランです。
1870年の普仏戦争敗戦後、皇帝と共にイギリスに亡命し、余生の大半をイギリスで過ごしました。
当ショップのアンティーク物語『ウジェニー皇后とジュエリーの煌めき』で、ウジェニー皇后を深く掘り下げてご紹介しています。ぜひご一読ください。
「聖遺物ブローチ」
「聖遺物ブローチ」 出典:Wikimedia Commons
※本記事でご紹介可能な聖遺物ブローチの写真はぼやけたものになってしまいますので、ルーヴル美術館のコレクションページなどで鮮明な写真をご覧ください。
このブローチは、フランスで”Broche dite broche reliquaire”と呼ばれています。直訳は、「聖遺物ブローチと称されるブローチ」あるいは「いわゆる聖遺物ブローチ」です。ややまわりくどい表現に感じられるかもしれませんね。「聖遺物」という名称が、このブローチの本来の機能を指すものではなく、あくまで歴史的に定着した呼称であるため、このような言い回しが用いられているのです。本記事においても、このニュアンスを伝えるために「聖遺物ブローチ」とカッコ書きで表現しています。
”reliquaire”とは、聖遺物(聖人やイエス・キリストにまつわる、遺品や遺骸の一部)を納める箱などを指す言葉であり、本ブローチのピンにこの単語が刻印されています。しかし、ブローチ本体には、聖遺物を納めるための空間が全く設けられていないのです。ブローチを納めるケースの裏側にある小さな収納スペースが聖遺物の収納を意図したものなのではないかという説や、ブローチが分解可能なため、後付けで聖遺物を収めた収納部を挿入できるよう設計されたのではないか、などという説もあります。
ブローチは1855年に制作されており、台座はヴェルメイユ製です。いろいろな形にカットされた計94個のダイヤモンドが留められていますが、特に目を引くのは、中央に留められた、頂点が向かい合った三角形の大きなダイヤモンドのペアではないでしょうか。この二つの三角形のダイヤモンドは、マザラン・ダイヤモンドと呼ばれる、歴史的なダイヤモンド・コレクションの一部です。マザラン・ダイヤモンドは、17世紀フランスの宰相、マザラン枢機卿が1661年に死去した際、太陽王と呼ばれたルイ14世に遺贈した18個のダイヤモンドのセットです。聖遺物ブローチに留められた二つの三角形のダイヤモンドは、このコレクションの17番目と18番目(通番)にあたるもので、ルイ14世のジュストコール(justaucorps、儀式用のコート)のボタンとして使用されていました。
「聖遺物ブローチ」は、その歴史的価値が高く評価されており、後述する1887年の王室・帝室宝飾品の競売会に出品されず、同年ルーヴル美術館に収蔵されました。
ティアラ
真珠とダイヤモンドのティアラ 出典:Wikimedia Commons
このティアラに留められている真珠は、もともとマリー・ルイーズ皇后(ナポレオン1世の2番目の皇后、本記事の第2章参照)に贈られたパリュールに使用されていたものであったといわれています。
ティアラを制作したのは、宮廷の宝飾師でもあったナポレオン3世期の代表的ジュエラー、アレクサンドル・ガブリエル・ルモニエ。212個の大ぶりな天然真珠が留められたフィリグリー細工のシルバーの台座には、1998個のオールドカット・ダイヤモンドも散りばめられており、その総重量は63.30カラットに及びます。他に992個のローズカットダイヤモンドが使用されており、その贅沢な作りにはただ圧倒されるばかりです。
1870年にナポレオン3世の第二帝政が崩壊し、第三共和政が樹立された後、新政府は王政や帝政との決別を象徴的に示すことを強く望みました。そのため、政府はフランスの王室や帝室が所有していた宝飾品コレクションの大部分を競売にかけて処分することにしたのです。1887年に開催されたこの競売は「王冠のダイヤモンド(Diamants de la Couronne)競売会」と呼ばれ、フランスの歴史上、物議を醸した大事件として知られています。オークションで得られた資金は、国債への投資と、「農民と労働者のための年金基金」に充てられました。
ウジェニー皇后のティアラはこの競売会に出品され、宝飾商ユリウス・ジャコビーが落札しました。その後、トゥルン・ウント・タクシス家のアルベルト侯爵が取得し、サザビーズのオークションを経たのち、1992年にルーヴル美術館に寄贈され、収蔵に至っています。
リボン飾りのコサージュブローチ
リボン飾りのコサージュブローチ 出典:Wikimedia Commons
今回の強盗事件で盗難にあった作品のうち、最も有名な宝飾品は、このリボンブローチ(コサージュ)ではないでしょうか。フランスのアンティークジュエリーに慣れ親しんだ方であれば、このゴージャスなブローチの美しさに感嘆された経験をお持ちかと思います。私にとっても、好きなアンティークジュエリーのベスト3に入るお気に入りの品です。このブローチも盗まれたと知り、残念でなりませんでした。
ちなみに、西欧においては、宝飾品としての「コサージュ(Corsage)」とは、胴衣部分を飾るための比較的大型のジュエリーを意味します。
2,438個のブリリアントカットダイヤモンドと196個のローズカットダイヤモンドが留められたこのリボンブローチは、もともと4,000個以上の宝石が留められたベルトの一部でした。1855年にこのベルトを制作したのは、宝石商および宝飾デザイナーであるフランソワ・クラマーです。1864年にウジェニー皇后の希望により、豪華なリボンブローチに改作されました。改作を担当したのも、もちろんクラマー氏。リボン風にデザインされていたベルトの留め金部分がブローチの核としてそのまま利用され、新たな装飾が加えられました。高度なセッティングによって結び目と房飾りが非常にしなやかに動くように作られており、わずかな動きでもダイヤモンドがきらきらと光を放つといわれています。
ナポレオン3世失脚後、先にご紹介した1887年の王冠のダイヤモンド(Diamants de la Couronne)競売会に出品され、ニューヨークのキャロライン・アスターが所有することとなりました。その後、数名の貴族の手を経たのち、2008年にルーヴル美術館が取得しています。
アンティーク物語『アンティークジュエリーとリボンモチーフ』でもこのリボンブローチをご紹介していますので、よろしかったらご覧になってみてください。
5.おわりに
ご紹介させていただいた通り、ルーヴル美術館から盗まれた品々は、フランスの歴史に深く関わり、その文化遺産として極めて大きな価値を持つものばかりです。フランスメディアの論調も、「失われたのは、8,800万ユーロという金額では到底換算できない、フランスのアイデンティティ、文化、歴史そのものだ」というものであり、その喪失感は国民に深い衝撃を与えています。
半仏人の私にとっても、フランスの歴史を物語る証人ともいえる重要なアンティークジュエリーが失われたことは大きなショックです。
この記事が、失われたジュエリーの価値を改めて感じていただくきっかけとなり、共にその無事な帰還を願う気持ちにつながれば幸いです。
最期までお読みいただき、ありがとうございました!