ウジェニー皇后とジュエリーの煌めき
Bonjour 皆さん!オーナーのラファエルです。
フランスのアンティークジュエリーの歴史には、何人かの重要なインフルエンサーが存在します。重要な人物として、ポンパドール夫人、マリー・アントワネット、ジョゼフィーヌ皇后、そしてフランス最後の皇后、ウジェニー・ド・モンティジョことウジェニー皇后が挙げられるでしょう。ブログや商品説明において何度かご紹介している本サイトをご覧になっている方を除けば、日本ではウジェニー皇后の知名度は今一つ低いかもしれません。しかし、フランス、ヨーロッパのジュエリー界に大きな影響を与えたウジェニー皇后は、フランスのアンティークジュエリー界においてマリー・アントワネットと双璧を成す重要人物なのです。
また、彼女が好んだ豪華でエレガントなスタイルやジュエリーをリメイクするというアプローチは、今なおジュエリーブランドにおいて評価され、現代のジュエリーデザインにも引き継がれています。ウジェニー皇后の影響は、特にロイヤルジュエリーや高級ジュエリーにおいて、色あせることなく息づいているといえるでしょう。
ウジェニー皇后(1864年、Franz Xaver Winterhalter画) 出典:Wikimedia Commons
本記事ではウジェニー皇后の生涯と、ジュエリーとの関わりをご紹介させていただきます。
目次
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ウジェニー皇后の生涯
・誕生から思春期まで
・ナポレオン3世との結婚
・第二帝政期の宮廷文化とファッションリーダーとしての役割
・普仏戦争と亡命、晩年の英国生活
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ジュエリーの皇后、ウジェニー
・ウジェニーが愛したジュエリー
-18世紀回帰
-宝石とカラー
-プライベートジュエリー
・ジュエラーとウジェニー
1.ウジェニー皇后の生涯
ウジェニー皇后はスペインの生まれです。思春期に母親に連れられフランスに渡ったのちナポレオン3世と結婚し、普仏戦争敗戦によりイギリスに亡命し余生の大半をイギリスで過ごしました。栄光と没落、希望と絶望が交錯する、まさに波乱万丈の人生。ナポレオン家やその周囲の人びとの宿命なのかもしれませんね。
誕生から思春期まで
ウジェニーは王政下の1826年にスペインで貴族の家に生まれました。ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)という通称は、彼女の父が持っていた「モンティホ伯爵」(Conde de Montijo)に由来する呼び名です。この称号がフランス語圏において、貴族の出身を表すものとして使われました。
彼女のスペインでの正式な名前は”María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick”。長いですが、ヨーロッパではよくあること。余談になりますが、私の母親のフランス名も"Armelle Marie Marguerite Lucile"と、4つの名前を並べた長いものでした。
伯爵である父親は、スペインで「アフランセサド(Afrancesado) = 親仏派」と呼ばれる、スペイン独立戦争の際にフランス(ナポレオン1世)側を支持したスペイン人でした。1814年、パリが陥落したナポレオン戦争の戦いにフランス側として参加したとされていますので、相当なフランス&ナポレオンびいきだったのでしょう。母親はスコットランドとワロン系ベルギーの血を引く貴族です。

左から母、姉、ウジェニー 出典:Wikimedia Commons
母親と姉妹はカルリスタ戦争(スペインの王位継承をめぐる戦争)の影響を避けるために二人の娘をフランスに連れて行き、しばらくスペイン国境近くのビアリッツという海辺の町に滞在しました。ウジェニーはこの町を大変気に入り、結婚後にナポレオン3世に宮殿を建ててもらったそうです。
1834年から1838年まで、母親は姉妹にパリの修道院で教育を受けさせます。当時の貴族にふさわしい伝統的な教養、礼儀作法、カトリック信者としての心構えを身に付けさせるためです。
その後、1839年に父親が亡くなったことを契機に、姉妹の教育はあの文豪スタンダールに託されました。スタンダールはナポレオン1世時代の歴史やナポレオンに関する逸話も教えたそうです。ここまでナポレオン尽くしの環境を見ると、ウジェニーとナポレオン3世の結婚は必然のように思えてきますね。(姉は父親の称号を引き継ぎ、スペインのアルバ侯爵と結婚しました)
ナポレオン3世との結婚
のちに皇帝に即位しナポレオン3世となるルイ=ナポレオン・ボナパルト(Louis-Napoléon Bonaparte)と初めて出会ったのは、彼の従妹であるマチルド・ボナパルト(Mathilde Bonaparte)の邸宅でした。パリ社交界にデビューし、マチルドのサロンに招かれたのです。ナポレオン3世がフランス共和国大統領に就任した翌年の1848年のことでした。エリゼ宮での出会いが最初であるとする日本語圏の情報(日本版Wikipedia含む)は誤り。もちろん、その後はエリゼ宮の宴席などで顔を合わせることもありました。
ルイ=ナポレオンは一目でウジェニーに心を奪われ、彼女を口説き落とそうとする求愛は2年にも及んだそうです。ウジェニーと結婚したのは、彼が皇帝に即位しナポレオン3世を名乗った1852年12月の翌月であるの1853年1月でした。
ナポレオン3世は、結婚式の一週間ほど前に以下の布告を発表しています。「スペインの貴族ではなく、君主の家系と縁を結ぶべきだ」と考え、この結婚に反対する者が多かったという背景も感じられる内容です。
「私が選んだ女性は、高貴な家柄の出身である。彼女は心のうえでフランス人であり、教育によってフランスの精神を学び、さらに父親が帝国のために戦い血を流したことを誇りに思っている。スペイン人である彼女には、フランス国内に特別な栄誉や地位を与えねばならぬ親族もいないという利点がある。彼女はすべての徳を兼ね備え、帝位をより輝かせる存在となるとともに、いざという時には勇敢な支えともなるだろう。カトリック信徒として敬虔な彼女は、私と共にフランスの幸福を天に祈るだろう。優雅で慈愛に満ちた彼女は、私の確信するところ、皇后ジョゼフィーヌの美徳をよみがえらせる存在となるに違いない。私はここに、フランスの皆様に申し上げる。私は、愛し、敬う女性を選んだのであり、利害と引き換えに結ばれるべき未知の女性ではない。誰に対しても軽蔑の念を抱くことなく、私は自らの情熱に従った。しかしそれは、理性と信念を熟慮したうえでの決断である。」
ウジェニーとナポレオン3世の結婚式 出典:Wikimedia Commons
結婚式が執り行われたのはノートルダム大聖堂です。結婚を祝し、ナポレオン3世は約3,000件もの恩赦を発しました。
王家と皇帝は異なるものの、外国から君主に嫁いだという共通の境遇にあったマリー・アントワネットとウジェニー皇后。この類似性は、ウジェニー皇后がアントワネットに強い共感を覚え、崇拝へと至る一因となったと考えられます。
第二帝政期の宮廷文化とファッションリーダーとしての役割
第二帝政期とは、ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)が皇帝として君臨した1852年から1870年までの約19年間を指す言葉です。どちらかというと教科書的な表現で、一般的にはナポレオン3世時代と呼ばれることの方が多いかもしれません。ここで少し余談。ナポレオン1世の長男であるナポレオン2世はわずか21歳で亡くなりました。ナポレオン3世はナポレオン1世の甥で、2世の子でありません。
ポレオン3世と結婚しフランス皇后となったウジェニーは、単なる国家元首の配偶者にとどまらず、第二帝政期の宮廷文化を華やかに彩る存在となりました。ヴェルサイユ宮殿の伝統を意識しつつルイ14世時代の壮麗な宮廷儀礼を復活させることで、皇帝の権威を視覚的に強調し、フランス宮廷の格式を再びヨーロッパの中心に据えたのです。
夏になると宮廷の人びとが滞在したコンピエーニュ宮殿(ルイ15世が建造したフランス北部の宮殿)で、ウジェニー皇后は優れたホステスとして高い評価を得ていました。会話に非常に長けていたこともこの評価に寄与したようです。
ウジェニーはまた、19世紀後半のファッション界においても絶大な影響力を持ち、当時の流行を牽引しました。豪華な装いで流行を生み出す才能があったのです。マリー・アントワネットに強い憧れを抱いていたため、ロココ調のスタイルを好み、繊細なレースやシルクを贅沢に用いたドレスを愛用しています。特に、クリノリン(ドレスのスカート部分を大きく膨らませるフレーム)を取り入れた装いは、彼女のアイコンともなり、ヨーロッパ中の貴婦人たちがこぞって模倣しました。
ウジェニー皇后と女官たち 出典:Wikimedia Commons
さらに、ウジェニーはイギリス人のシャルル・フレデリック・ウォルト(Charles Frederick Worth)を宮廷御用達デザイナーとして重用し、彼の手掛けるオートクチュールを広めました。ウォルトの洗練されたデザインとウジェニーの優雅なセンスが融合したことで、フランスのファッションは一層の輝きを放ち、パリは再び世界のモードの中心地となったのです。
ウジェニー皇后の趣向は、彼女を快く思っていない人びとから「Fée Chiffon(布地の妖精)」と揶揄されるほど華美なもの。彼女なしには「Fête impériale(帝国の宴)= 第二帝政時代のナポレオン3世の宮廷で催された豪華な祝宴」という言葉は生まれなかったでしょう。この表現は、彼女が皇帝の周囲に20年もの間作り上げた贅沢で華やかな空気を的確に表しているといえます。
普仏戦争と亡命、晩年の英国生活
プロイセンの勢力拡大を警戒していたフランスは、1870年7月、プロイセンに宣戦布告しました。プロイセン軍はあらゆる面でフランスの優位に立っており、初戦はフランスがあっけなく敗北。ナポレオン3世は政治・軍事両面で孤立することとなりました。戦場での戦死を望んだ皇帝は前線に向かいましたが、最終的に捕虜となり、城内に幽閉されます。その直後、ウジェニー皇后はイギリスへの逃亡を果たしました。ナポレオン3世もその後イギリスに亡命し、1873年に亡くなります。
ウジェニーはヨーロッパの王家の人びとと交流を持ちながら、イギリスで優雅に暮らしました。1906年、80歳になった彼女は、英国女王ヴィクトリアの孫娘バッテンベルク公女ヴィクトリアの名付け親となっています。1910年には宮廷の夏の住まいであったコンピエーニュ宮殿を、1914年には長く居住していたチュイルリー庭園を訪れたものの、見学のガイドや警備員はウジェニーであることを認識できず、冷たくあしらわれたそうです。少し寂しいお話しですね。
晩年には姉が嫁いだスペインのアルバ侯爵家のもとをたびたび訪れています。1920年7月、アルバ公爵家の宮殿に滞在中、94歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
2.ジュエリーの皇后、ウジェニー
個人的な嗜好という観点でウジェニー皇后が好きなものベストスリーを挙げるとすると、「マリー・アントワネット」「ジュエリー」「ファッション」で異論は無いでしょう。特にジュエリーには惜しみなくお金をつぎ込みました。その購入総額は360万フラン程度といわれています。貨幣価値の換算はなかなか難しいのですが、労働価値ベース(一般労働者の日給)で計算すると、当時の360万フランは現代の数百億円に相当すると推定されます。注文記録によれば、皇后はお気に入りの宝飾店メレリオをほぼ毎週のように訪れていたようです。また、親交があったハプスブルク家の皇妃エリザベートとお互いのジュエリーについて情報交換をしていたといわれています。
とはいえ、決して贅沢ばかりを求めていたわけではありません。ナポレオン3世との結婚の際、パリ市から贈られる予定だった豪華なネックレスを辞退し、その資金を孤児院の建設に充てるよう要請したという逸話もあります。
大金をかけて築き上げたジュエリーコレクションですが、イギリス亡命後は、生活資金確保のためにオークションにかけたり、ヨーロッパの王族や貴族たちに売却することとなりました。1872年に行われた初回オークションの出品は123点に及び、当時の112万5000フラン相当の売上があったとされています。王冠、ティアラその他オフィシャルな装飾品の多くはフランスに残され、のちにその一部がフランス政府のオークションにかけられました。

ウジェニーが愛したジュエリー
ウジェニー皇后は、非常にファッションセンスが良く、ジュエリーを魅力的に見せる使い方にも卓越しています。彼女が身に着けたジュエリーは、当時の女性たちの憧れの的となり、そのスタイルは「ウジェニー・スタイル」として流行しました。「ウジェニースタイル」は、彼女の華やかで洗練された趣向を反映しています。
それでは「ウジェニー・スタイル」がどのようなものであったのか見ていきましょう。
・18世紀回帰
マリー・アントワネットに憧れていましたので、18世紀のジュエリーの影響を強く受けています。例えばリボンをモチーフとしたもの。アンティーク物語『アンティークジュエリーとリボンモチーフ』においてウジェニーが所有したリボンジュエリーをご紹介していますので、ぜひご覧になってみてください。

18世紀に影響を受けたデザインとして、さらにガーランド、フェストゥーン(花綱飾り)が挙げられます。彼女のこの趣向がベルエポック期におけるガーランドスタイル流行につながったという事実は、19世紀フランスのアンティークジュエリーにおける鉄板ストーリーです。
※ガーランドスタイルについては、アンティーク物語『ガーランドとアンティークジュエリー』をご覧ください。
下の写真はウジェニー皇后が所有していたガーランドスタイルのパリュール(ジュエリーのセット)です。
フサスグリ(グロゼイユ)の葉のパリュール 出典:Jewel du Jour
コサージュやブローチとしても使える各ピースを全て接続すると、ガーランドスタイルのネックレスに変身します。写真の右側に映っているのは"Catalogue Berthaud"として知られる、1887年にフランス政府が主催したオークションのカタログ表紙です。
フランスのWikipediaによれば、主にウジェニー、ナポレオン3世のジュエリーが出品されたこのオークションで、約680万フランの売り上げがあったとされています。個人用のジュエリーに支出した金額も驚異的なものでしたが、政府や王室に関連するジュエリーの規模も桁外れですね。
最も多用された宝石はやはりダイヤモンドです。昔風のパヴェセッティングで留められたものや、ロゼットモチーフ(花形の装飾モチーフ)に仕立てられたダイヤモンドジュエリーが人気でした。大粒のイエローダイヤモンドも多く見られ、他のカラーストーンもダイヤモンドと組み合わせて使用されています。
真珠への愛も相当なものだったようです。彼女のコレクションには無数ともいえるほどの真珠のネックレスが含まれていました。ネックレス以外のパールジュエリーも数多く所有しており、例えば近年アメリカの宝飾商Siegelsonが販売したグレーパールのドロップイヤリングが挙げられます。
彼女のパールジュエリーを語る上で欠かすことができないのは、「真珠とダイヤモンドのティアラ」と伝説の真珠「レジャント」でしょう。
真珠とダイヤモンドのティアラ 出典:Wikimedia Commons
真珠とダイヤモンドのティアラに使用されている真珠はもともとナポレオン1世の二番目の妻であるマリー=ルイーズ皇后に贈られた壮麗な真珠のパリュールの一部であったといわれています。本記事冒頭でご紹介したように、ウジェニーはジュエリーのリメイクが得意。ナポレオン1世やフランス王家から継承されたジュエリーを積極的に再利用していました。
超大粒を含む212個の天然真珠が留められたこのティアラを制作したのは宮廷の宝飾師ルモニエ(Alexandre-Gabriel Lemonnier)。フィリグリー細工があしらわれたシルバーの台座には小粒のオールドマインカットダイヤモンドも散りばめられており、その総数は1998石、総重量は63.30カラットに及びます(他に992個のローズカットダイヤモンド)。大粒の真珠を取り囲むように留められたダイヤモンドが、真珠の輝きと存在感を際立たせている様は圧巻です。
レジャントを身に着けたウジェニー皇后 出典:Wikimedia Commons
1887年のフランス政府オークションでこの真珠を落札したのはファベルジェの卵で有名なあのピーター・カール・ファベルジェの代理人。ファベルジェはこの真珠をペンダントに仕立て、ロシアの名門貴族ユッソポフに売却しています。その後何度か売買が繰り返され、2005年にクリスティーズのオークションにて約250万ドルで落札されました。最新の写真はクリスティーズのサイトでご確認ください。
ダイヤモンドや真珠に加え、エメラルドも個人的な好みからウジェニーが情熱を注いだ宝石です。結婚当初、王室の宝物庫に保管されているエメラルドのジュエリーは少なく、彼女が自由に使うことができたものはマリーアントワネットの娘マリー・テレーズのティアラだけでした。そこで、ウジェニーは多額の資金を費やし、エメラルドのコレクションを充実させていきます。
彼女の有名なエメラルドジュエリーの一つに、ウジェーヌ・フォントネ(Eugène Fontenay)が制作したディアデムがあります。
ウジェニー皇后のディアデム(白黒版画に着色) 出典:diamantsdelacouronne.free.fr
エメラルドを取り外して他の宝石に交換することができました。交換可能な宝石は大きな真珠であるとする資料もあれば、17の大粒ダイヤモンドとする資料もあります。
出典:Wikimedia Commons
皇后が着用している写真を見てみると、一つ前の版画の着色箇所が誤っているようにも感じられます。オイルペイントの肖像画も確認してみましたが、やはり緑の部分が着色画とは異なっているように見えました。とはいえ、色の無い部分はダイヤモンドと取り換えられている状態なのかもしれませんので、必ずしも着色が誤っているとは断定できないでしょう。
実はこのディアデムがその後どのような運命をたどったのかもはっきりしていません。「1887年のオークション⇒1900年、ルーブル美術館に収蔵⇒第2次世界大戦中にナチス・ドイツによってルーブル美術館から持ち出され行方不明」という説や、「1920年の没後に名付け子が遺贈された箱の中から発見した9個のエメラルドがディアデムから外されたものであると思われる」という説もあります。どちらも非常にもっともらしいストーリーなのですが、現在のところ真偽は不明なようです。
もう一つ有名なエメラルドジュエリーを挙げるとすれば、やはりこの王冠でしょう。
ウジェニー皇后の王冠 出典:Wikimedia Commons
先にもご紹介した宮廷の宝飾師ルモニエの作で、1855年の第1回パリ万国博に出品されました。2,480個のダイヤモンドと56個のエメラルドが留められています。ルーブル美術館のアポロンギャラリーに展示されていますので、お立ち寄りの際はぜひご覧になってみてください。
・プライベートジュエリー
プライベート用に所有していたジュエリーは、公式のものと比べてより可愛らしく多様なスタイルのものが多かったようです。以下にいくつかご紹介いたします。
孔雀の羽のブローチ
1868年メレリオ・ディ・メレー作。サファイア、ルビー、ダイヤモンド、エメラルドが使われています。ウジェニーのジュエリーといえばまず取り上げられる歴史的な一品。圧巻の美しさですね。
フローラルブローチ 出典:Horovitz & Totah
ウジェニー皇后のものとされるルビー、天然真珠、ダイヤモンドのブローチです。3個のドロップシェイプパール、1.8カラットのビルマ産を含む多数のルビー、そしてペアシェイプとオールドマインカットのダイヤモンドで構成されています。
エナメルとダイヤモンドのクローバーブローチ
結婚前年の1852年秋、ナポレオン3世と共に散歩していた公園でウジェニーは朝露に濡れたクローバーを目にし、その美しさに心を奪われます。数日後、ナポレオンはクローバーを模したエナメルとダイヤモンドのブローチを購入し、ウジェニーに贈りました。ショーメの作品として紹介されることもありますが、厳密にいうとショーメの名がまだ使われていなかった時期に、ジュール・フォッサンのもとで制作されたものです。
クローバーブローチを身に着けたウジェニー皇后 出典:Wikimedia Commonsを改変
ジュエラーとウジェニー
ウジェニー皇后は19世紀後半のジュエリートレンドを牽引した存在であり、多くのハイジュエラーと深い関係を築きました。彼女の審美眼はパリのジュエリー界に大きな影響を与え、ジュエラーたちのインスピレーション・ソースとなっていたのです。
当時のハイジュエラーたちと彼女の関わりを簡単にご紹介します。
※ナポレオン3世時代(第二帝政期)に存在したハイジュエラーの中で、メレリオ、ショーメ、ブシュロンのみが現在も営業を続けています。
・メレリオ・ディ・メレー(Mellerio dits Meller)
店舗をほぼ毎週訪れるほどウジェニー皇后のお気に入りのジュエラーであったメレリオは、1613年創業の老舗ジュエリーメゾンで、ナポレオン3世時代に特に宮廷との結びつきを強めました。
当時のメレリオの経営者の一人であったジャン・フランソワ・メレリオは、ナポレオン3世と結婚する前のウジェニーのために、彼の最初のティアラを制作しました。ゴールドの月桂樹と真珠をあしらったシンプルなものだったそうです。その後、フランス皇后となった彼女はメレリオに強い信頼を寄せ、同社の最も重要な顧客となりました。
メレリオとウジェニー皇后の関係は、メレリオの歴史において非常に重要な部分を占めています。皇后の存在は、メレリオのブランドイメージを高め、世界的なジュエラーとしての地位を確立する上で大きな役割を果たしました。
・ショーメ(Chaumet)
ショーメは、ナポレオン1世の時代からフランス皇室に仕えたジュエラーです。ウジェニー皇后をはじめとするフランス宮廷に数多くのジュエリーを提供し、ナポレオン3世時代の宮廷でも重要な役割を果たしました。
特に、皇后が公的な場で使用するティアラ、ネックレス、ブレスレットなどを手掛けていたことが知られています。ウジェニー皇后がショーメのジュエリーを愛用したことは、ショーメのブランドイメージを高め、メレリオ同様、ヨーロッパ中の王侯貴族に愛用されるようになりました。
※「ショーメ(Chaumet)」というブランド名が使用されるようになったのは1885年からで、当時は「フォッサン・エ・フィス(Fossin et Fils)」という名前で営業していました。フォッサンは馴染みの無い名前ですので、「ショーメ」とさせていただきました。
・ブシュロン(boucheron)
ブシュロンの創業は結婚後の1858年。創業者フレデリック・ブシュロンがパリのパレ・ロワイヤルに最初の店をオープンしました。1866年にはアトリエを開き、翌年の1867年のパリ万国博覧会で金賞を受賞しています。その後も事業を拡大していき、1893年にヴァンドーム広場のブティックをオープンしました。
高い技術と芸術性で知られいるブシュロンは、創業当初から王侯貴族やセレブリティを顧客に抱えていました。しかし、歴史が浅かったせいか、ウジェニー皇后のお気に入りというわけではなかったようです。「ウジェニー・スタイル」を取り入れ、自社のジュエリーに反映させていたということが知られています。
おわりに
大変長くなってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ウジェニー皇后についてお伝えしたいことは、まだまだ尽きません。彼女が過去のアート様式をどのように取り入れたのか、そしてそれがベルエポックやアール・ヌーボーへとどうつながっていったのか。フランスのジュエリー史を俯瞰しながら、さらに深く掘り下げた内容を、いつかお届けできればと思います。
あらためて詳しく調べる中で、フランスの人々がいかにウジェニー皇后を愛し、関心を寄せているかを再認識しました。本記事が、日本で彼女の功績や歴史への理解を深める一助となれば幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!